記念碑的科学本『死は存在しない』(田坂広志著 光文社新書)
- Nobukazu Tajika
- 6月17日
- 読了時間: 28分
更新日:6月20日

▪️田坂広志(たさかひろし)
1951年生まれ。1974年東京大学卒業。1981年同大学院修了。工学博士(原子力工学)。1987年米国シンクタンク・バテル記念研究所客員研究員。1990年日本総合研究所の設立に参画。取締役等を歴任。
2000年多摩大学大学院教授に就任。現名誉教授。同年シンクタンク・ソフィアバンクを設立。代表に就任。2005年米国ジャパン・ソサエティより、日米イノベーターに選ばれる。
2008年世界経済フォーラム(ダボス会議)のGlobal Agenda Council のメンバーに就任。2010年世界賢人会議ブダベスト・クラブの日本代表に就任。2011年東日本大震災に伴い内閣官房参与に就任。2013年全国から7300名の経営者やリーダーが集まり、「21世紀の変革リーダー」への成長をめざす場「田坂塾」を開塾。著書は100冊余。
「意識」の謎に迫る記念碑的科学本
「記念碑的科学本」が出ました。田坂広志著『死は存在しない』(光文社新書)という本です。初版は2022年10月ですが、私は2026月5月、YouTubeの動画で偶然この本のことを知りました。すぐに、この本をAmazonで購入しました。なぜか、「この本は読まなければならない」という天啓のような「ひらめき」が私を襲ったのです。今にして思えば、それは本書で分析鋭く語られている「不思議な意識体験」だったのかもしれません。
本が自宅に届き、一気に読破しました。目から鱗(うろこ)とは、まさにこのことでしょう。「唯物論」が支配的な科学界で、第一線の科学者として活躍してこられた著者が、従来の「唯物論」の立場を超えて、「意識」」の問題を、堂々と正面から論じておられるのです。量子力学の知見から「意識」の問題を正面から堂々と論じている——それが、本書なのです。
しかも、「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」という大胆かつ緻密な科学的仮説を立て、この仮説から「意識」や「死」の問題に鋭く切り込んでおられるのです。あくまで科学者としての立場からの、最先端の量子科学の知見に基づく仮説です。「科学的・合理的な立場」から述べておられるわけです。
世間によくありがちな、科学に基づかない、単なるスピリチュアルな体験談ではないということです。そんなものとは、一線を画する瞠目(どうもく)すべき、21世紀の重要な科学本なのです。私が「記念碑的科学本」と呼んでいるのは、それがためです。
では、「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」とはどのような仮説なのでしょうか? 本書では、こう解説されています。
「『ゼロ・ポイント・フィールド仮説』とは、一言で述べるならば、この宇宙に普遍的に存在する『量子真空』の中に『ゼロ・ポイント・フィールド』と呼ばれる場があり、この場に、この宇宙のすべての出来事のすべての情報が『記録』されているという仮説である。」(P116)
こう述べられても、多くの方は「何のこと?」と思われるに違いありません。ですから、著者もこう続けて説明しておられます。
「こう述べても、あなたは、にわかには信じ難いであろう。実は、筆者も、そうであった。しかし、筆者の専門である量子物理学の観点から見ると、この宇宙には『量子真空』(Quantum Vacuum)と呼ばれるものが存在し、その場が、『ゼロ・ポイント・エネルギー』で満たされているということは、現在、科学的事実として認められている。」(P116~117)
ところで、「量子真空」とは何でしょうか? 「それを説明するためには、まず、宇宙の誕生の起源から説明する必要がある」(P117)と本書は述べます。
「現代の最先端宇宙論では、一三八億年前、この宇宙が誕生したと述べている。では、その前には、何があったのか? そこには、何も無かった。ただ、『真空』だけがあった。この『真空』とは、専門用語で『量子真空』と呼ばれるもの。
この『量子真空』が、あるとき、ふと『ゆらぎ』を起こした。その瞬間、この『量子真空』が、極微小の宇宙を生み出し、それが、急激に膨張し始めたのである。
このプロセスを論じた科学理論が、佐藤勝彦やアラン・グースらが提唱する『インフレーション宇宙論』と呼ばれるもの。
そして、その直後、この宇宙の萌芽が、大爆発(ビッグバン)を起こし、現在の宇宙が誕生した。このプロセスを論じた科学理論が、ジョージ・ガモフらによって提唱された『ビッグバン宇宙論』と呼ばれるもの。
次いで、ビッグバンを起こしたこの宇宙は、光の速さで膨張し、一三八億年かけて、現在のような壮大な広がりを持つ宇宙になった。
そして、その宇宙の片隅に、太陽という恒星が生まれ、、その一つの惑星であるこの地球に、様々な生命が生まれ、豊かな生態系が生まれ、そして、我々人類が生まれた。
このように、この壮大な宇宙、森羅万象の宇宙は、すべて、この『量子真空』から生まれたのである。」(P117~119)
ちなみに、私は以前、東京大学に赴(おもむ)き、佐藤勝彦氏の先輩筋にあたる佐藤文隆氏をお訪ねして、この「インフレーション宇宙論」などについてインタビューしたことがあります。佐藤両氏は宇宙論がご専門の著名な科学者です。
そして、そのことを、当時、私が連載していました『ワイアード』という雑誌の「サイエンス・オデッセイ』という記事に書かせていただきました。これは、科学者たちへの連載インタビュー記事です。
さて、話を元に戻しましょう。「真空」といわれると、私たちは通常、「何も無い空間」と思いがちです。しかし、「量子真空」は違います。まったく逆です。エネルギーが満ち満ちた空間なのです。本書はこう解説します。
「これは、すなわち、この『量子真空』の中には、この壮大な宇宙を生み出せるほどの莫大なエネルギーが潜んでいるということに他ならない。
そして、この『量子真空』は、いまも、我々の身の回りに、この宇宙のすべての場所に、普遍的に存在しているのであり、これは、別な表現をすれば、我々の生きているこの世界の『背後』に、『量子真空』と呼ばれる、無限のエネルギーに満ちた世界が存在しているということである。」(P119~120)
現代科学の最先端である量子物理学が明らかにしたことは、何も無いと思われていた「真空」の中に、莫大なエネルギーが潜んでいる、ということなのです。
量子科学によれば、「量子真空」では、目に見えない粒子と反粒子のペアが生まれては消えるということが繰り返されている、とされます。「量子真空」は、極めてダイナミックでエネルギッシュな場所であり、田坂氏が指摘されているように、「無限のエネルギーに満ちた場所」なのです。本書はこう述べます。
「このことは、『真空』を『無』と考える一般の常識からすると、なかなか理解できないことであろう。
なぜなら、密閉された容器の中から空気を含むすべての物質を吸い出し、容器の中を完全な『真空』の状態にしても、なお、その『真空』の中には、莫大なエネルギーが存在しているのである。そして、このエネルギーのことを、量子物理学では『ゼロ・ポイント・エネルギー』と呼んでいるのである。これは、たしかに、我々の常識を超えている。」(P120)
では、「ゼロ・ポイント・エネルギー」に潜む、「莫大なエネルギー」とはどれほど莫大なものなのでしょうか? 本書は、こんな驚くべき試算を紹介しています。
「これには、様々な試算があるが、例えば、ノーベル物理学賞を受賞したリチャード・ファインマンの計算によれば、一立方メートルの空間に潜むエネルギーは、世界のすべての海の水を沸騰させることができるほどの量であるとされている。
また、最新の『量子真空』の研究によれば、このエネルギーは『無限』であるとの理論も提示されている。」(P120〜121)
革命的な「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」
「量子真空」に潜む「莫大なエネルギー」について、これは現代の科学が認める「事実」である、と本書は述べます。本書はそう断った上で、こう続けます。ここからが、いよいよ著者の田坂氏が唱える「仮説」です。ただし、ただの「仮説」ではありません。現代の最先端科学が示している「仮説」なのです。本書の核心部分です。
本書では、先に述べた「仮説」を、さらに詳しく正確に解説していきます。
「この『ゼロ・ポイント・フィールド仮説』とは、この宇宙に普遍的に存在する『量子真空』の中に『ゼロ・ポイント・フィールド』と呼ばれる場があり、この場に、この宇宙のすべての出来事のすべての情報が『波動情報』として『ホログラム原理』で『記録』されているという仮説なのである。
(中略)筆者は、一人の原子力工学者として、この仮説が、決して一笑に付することのできないものであることを感じた。」(P121〜122)
この「仮説」を理解するためには、「波動」や「ホログラム原理」について知らなければいけません。まず、「波動」とは何でしょうか? 本書はこう解説します。
「量子物理学的に見るならば、この世界のすべては『波動』だからである。こう述べると驚かれるかもしれないが、これは『科学的事実』である。
すなわち、量子物理学的に見るならば、我々が『物質』と思っているものの実体は、すべて、『エネルギー』であり、『波動』に他ならず、それを『質量や重量を持った物質』や『固い物体』と感じるのは、実は、我々の日常感覚がもたらす『錯覚』にすぎない。
実際、我々は、自分自身の体も、この世界も、明確な『物質』として存在していると思っているが、実は、我々の体やこの世界は、すべて『原子』によって構成されており、その原子は、さらに電子や陽子、中性子という素粒子によって構成されているのである。
そして、この素粒子の正体は、実は『エネルギーの振動』であり、『波動』に他ならない。それゆえ、量子物理学的に見るならば、我々が日常的に感じる『物質』というものは、本来、存在しないのである。」(P123〜124)
例えば、ガラスのような「固い物体」。なぜ、私たちは、それを「固い物体」と感じるのでしょうか? 本書はこのことを、こう解説します。
「例えば、ガラスを鉄の棒で叩いて、それが『固い物体』に感じるのは、鉄原子という『波動エネルギーの塊』が、ガラスを構成するシリカの原子や酸素の原子の『波動エネルギーの塊』と反発するからである。
すなわち、我々の目の前に広がる世界は、どれほど、『強固な物質』に見えても、それを量子物理学のミクロの視点から見るならば、すべて『波動』に他ならない。
いや、それは、『目に見える物質』だけではない。我々が、『目に見えない意識』と思っているものも、その本質は、やはり、すべてエネルギーであり、波動に他ならない。もし、我々の意識や心や精神というものが、量子的な現象であるとしても、いずれも、『波動エネルギー』に他ならないからである。」(P124〜125)
本書のこの指摘は、実に重要です。世の中にある物質のみならず、意識のような非物質も、すべてエネルギーであり、「波動エネルギー」であるというのです。これは、私たちの物の見方を根本から見直させるものであり、科学にとっても実に重要な意識改革を迫るものです。とりわけ、科学界を支配している旧来の「唯物論」という考え方を、根底からゆさぶるものにほかなりません。
量子科学が導く「唯物論」の破綻
科学界を支配している「唯物論」。それは、「物質」こそ、この世界を成り立たせている根本である、という考え方に基づいています。つまり、「物質」こそすべてである、という考え方です。
意識、心、精神などという「非物資的なもの」は、「脳」という「物質」が生み出す「現象」にすぎず、「脳」が生み出す「副産物」にすぎない。それらは、いうならば、「幻」のようなものにすぎず、そんな「幻」は科学の対象ではない、と考えるわけです。
しかし、本書の緻密な科学的考察は、こうした旧来の「唯物論」の考え方に、真っ向から異を唱えるものです。なぜなら、「唯物論」の基盤となっているのは、「物質こそすべて」という考え方ですが、本書が科学的に示しているのは、「物質消滅」ということにほかならないからです。
科学的に見れば、すでに、「唯物論」は破綻しているといって過言ではありません。「物質」を捉えるものの見方や、「物質」の定義そのもののが足元から崩壊しているのです。そして、このことを明らかにしたのが、最先端の量子科学である、ということなのです。
ですから、現代科学が到達した最先端の領域、つまり量子科学が明らかにしていることを踏まえずして、もはや、科学的に物事を語ることは許されない、というべきでしょう。
改めて整理する意味で、本書の主張にもう一度、耳を傾けましょう。
本書が指摘しているように、「唯物論的科学」は、世界のすべては「物質」の性質から説明できるという立場に立っています。この世界の本質は、「物質」であり、「生命」や「生物」も、さらには「意識」や「心」や「精神」も、すべて「物質」が複雑な物理的・化学的な相互作用を生じた結果、生まれてきたものである、とする立場です。これが、「唯物論」の立場であり、「唯物論的科学」の立場です。
ところが、この唯物論的立場が、根底からゆさぶられているのです。本書はこう述べます。
「現代の最先端科学、特に量子科学の世界を究めていくと、そもそも、その『物質』そのものが、確固として存在するものではなく、非常に不確かな存在であることが明らかになっている。(中略)この世界を、極微のレベル、原子よりも遥かに小さな『素粒子』のレベルで観察するならば、そうした日常感覚で捉える『物質』という存在が『消えて』いく。
その象徴的な例が、素粒子の一つである『光子』が示す『粒子と波動の二重性』である。」(P57〜58)
粒子と波動の二重性——ノーベル物理学賞を受賞したドイツの理論物理学者ハイゼンベルグは、すでに1927年に有名な「不確定性原理」を唱えました。「不確定性原理」とは、簡単にいえば、「原子より小さい粒子の位置と運動量、その両者を完全な正確さで測定することはできない」ということを唱える原理です。
量子力学が扱う素粒子などの極微の世界では、「物質」は奇妙なふるまいをします。「物質」の「位置」を測定しようとすると、「運動量」が測定できなくなり、逆に、「運動量」を測定しようとすると、今度は、「位置」が測定できなくなる。「粒子と波動の二重性」が、測定(観測)を「不確定」なものにしているわけです。
まさに、「不確定性原理」なわけですが、現在では、物理学における根本原理として広く知られています。
測定——言い換えると、「観測」という行為が介在すると、素粒子は、こんな不可解な「不確定性」をあらわにするのです。量子レベルで見ると、「物質とは何か?」という「物質の正体」そのものが、よくわからなくなってきていることの証左といえましょう。
この「物質消滅」ということは、アインシュタインの相対性理論にある「E=mc²」という有名な方程式からも示されていることです。Eはエネルギー、mは質量、cは光の速度です。この式は、要するに、物質の「質量」は「エネルギー」と等価である、ということを示す方程式です。本書は述べます。
「我々が『物質』と呼んでいるものは、実は、すべて『エネルギー』の固まりに他ならず、目の前に存在する『物質』は、それがいかに強固な存在に見えても、それは、究極、『エネルギーの固まりに他ならないのである。そのことを象徴的に示すのが、原子爆弾である。」(P59)
量子科学的に見れば、世界で起きているすべての現象の本質は「波動エネルギー」ということになります。
「それゆえ、もし、『量子真空』の中に存在する『ゼロ・ポイント・フィールド』が、この宇宙で起こった『出来事』、すなわち『波動エネルギー』を、『波動情報』として記録しているのであれば、『ゼロ・ポイント・フィールド』が、この宇宙の『すべての出来事』を記録しているという仮説は、決して荒唐無稽な理論ではない。」(P125)
「量子的な場」での「波動情報」は永遠に残る
極めて重要なことなので、重複を恐れず、改めて著者である田坂氏の論点や主張を整理してみましょう。
まず、量子物理学の観点から見るならば、この宇宙で起こったすべての出来事は「波動」である、ということです。「唯物論」が大前提の基盤としてきた「物質」という概念が、崩壊しているということなのです。「物質」とは何か、と問われても、科学的根拠を持って、それに正確に答えることができなくなっているのです。つまり、科学的にみても、「物質とは何か?」がよくわからなくなっている、ということなのです。
次に、「量子真空」についてです。量子物理学では、「量子真空」とは、そもそも、この壮大な宇宙を生み出した「場」を指します。しかも、この「場」は、宇宙のすべての場所に普遍的に存在しており、無限のエネルギーに満ちている、というのです。
「量子真空」というと、つい私たちは「何もない空間」と思いがちですが、事実は違います、そのまったく逆です。「量子真空」では、先にも述べましたように、目に見えない粒子と反粒子のペアが生まれては消えるということが繰り返されている、とされます。極めてダイナミックでエネルギッシュな場所であり、田坂氏が指摘されているように、「無限のエネルギーに満ちた場所」なのです。
しかし、こう述べても、抽象的な理論だけでは、なかなかイメージが湧いてこないかもしれません。それは、もちろん、著者の田坂氏も承知の上です。田坂氏は、こんな具体的なイメージを例にあげておられます。
「そこで、この『波動エネルギーを、波動情報として記録する』ということの意味を、誤解を恐れず、分かりやすい譬えで説明しよう。
例えば、いま、静かな湖面の上を吹きわたる風を想像して頂きたい。この場合、風は『空気の振動』であり、それが、湖面に『水の波動』である波を生み出す。それは、言葉を換えれば、『風』という波動エネルギーの痕跡が、『湖面の波』という波動情報として『記録』されるということである。
そして、湖面の上を、様々な『風』が吹きわたるならば、そのすべてが、『湖面の波』として『記録』されるだろう。これが、現実世界(湖面の上)での『出来事』(風)を、ゼロ・ポイント・フィールド(湖面)が、『波動情報』(湖面の波)として記録するということのイメージである。」(P125〜126)
とはいえ、現実の世界では、「湖面の波」は一時的な現象であり、すぐに消えてしまいます。ところが、「ゼロ・ポイント・フィールド」ではそうはならない、と田坂氏は解説します。
「ただし、現実の風や湖面では『波動のエネルギー』が減衰してしまい、この波動の痕跡は、時間とともに消えてしまう。しかし、ゼロ・ポイント・フィールドは『量子的な場』(Quantum Field)であるため、『エネルギーの減衰』が起こらない。そのため、このフィールドに『記録』された『波動情報』は、永遠に残るのである。」(P126)
重要なことは、こうした事柄は、「目に見える物質」だけにとどまるわけではない、ということです。本書はこう述べます。
「我々が、『目に見えない意識』と思っているものも、その本質は、やはり、すべてエネルギーであり、波動に他ならない。もし、我々の意識や心や精神というものが、量子的な現象であるとしても、脳内の神経細胞の電気信号であるとしても、いずれも、『波動エネルギー』に他ならないからである。」(P124 〜125)
宇宙の出来事を記録する「ホログラム原理」
頭の中にしかと刻み込んでいただくために、田坂が主張されている「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」について、再度繰り返し、ここに記述しておきましょう。「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」とは、こうです。
「この宇宙に普遍的に存在する『量子真空』の中に『ゼロ・ポイント・フィールド』と呼ばれる場があり、この場に、この宇宙のすべての出来事のすべての情報が『波動情報』として『ホログラム原理』で『記録』されているという仮説なのである。」(P121)
さて、この仮説を理解するためには、次に、「ホログラム原理」についての知識が必要になります。
ホログラム原理(ホログラフィー原理)とは、ある空間領域の物理情報は、その境界面上の自由度だけで完全に記述できる、という「量子重力理論」に関する仮説です。ブラックホールのエントロピーが表面積に比例する、ことなどから提案された理論です。
予備知識が必要な、いささか難解な理論ですが、ブラックホールのエントロピーが事象の地平線の面積に比例するということが出発点とされ、現代科学の最重要課題とされている量子力学と一般相対性理論を統一するための、「量子重力理論」への手ががりと考えられている理論なのです。
「ホログラム原理」では、情報量は「空間の体積」ではなく、「境界の面積」に比例する、とされています。3次元の情報が2次元面に記録される、という光学ホログラムになぞらえて命名された原理とされています。
しかし、こうした説明だけでは、いささか専門的すぎて、理解に苦しむかと思います。簡単にイメージするとすれば、こうです。
例えば、あなたが訪れた建物の中の3次元の全情報が、壁のごくごく薄い2次元的スクリーンに書き込まれている、といったイメージでしょうか。
また、こんな例もあげられます。3D映画を見ると、あたかも立体映像が目の前に飛び出してきたような視界映像が展開しますが、これは、映像フィルムに記録された2次元情報が、3次元的に映像化され、再生されたものにほかなりません。
科学の専門家である田坂氏の詳しい説明に耳を傾けましょう。
「では、この『ホログラム原理』とは何か。まず、これを専門的に説明すると次のようになる。ホログラム原理とは、波動の『干渉』を使って波動情報を記録する原理のことであり、位相を変えた『波動』同士が互いに干渉するときに生まれる『干渉縞(じま)』を記録することによって、高密度の情報記録を可能にし、鮮明な立体映像の記録も可能にする原理である。」(P131)
専門的でわかりにくいため、田坂氏は最もわかりやすいイメージとして、有名なSF映画『スター・ウォーズ』の映像を例にあげておられます。
映画の冒頭、主人公のルーク・スカイウォーカーの前に、レイア姫が、小さな投影機から3次元の立体映像として浮かび上がるシーンがありますが、「あの立体映像を映し出す技術が、『ホログラム原理』に基づくホログラフィー技術である。」(P131)と、田坂氏は解説しておられます。
続けて、田坂氏の重要な指摘にも耳を傾けましょう。「ホログラム原理」が持つ「二つの優れた特長」についてです。田坂氏は、こう解説されています。
「第一の特長は、この『ホログラム原理』を用いると、極めて高密度の情報記録が可能になる。すなわち、角砂糖ほどの大きさの媒体に、国会図書館の全蔵書の情報が収められるほど、膨大な情報を記録することができるのである。
従って、もし『ゼロ・ポイント・フィールド』が、『ホログラム原理』で、この宇宙の出来事の情報を記録しているのであれば、無限に近い膨大な情報を記録することが可能なのである。」(P132)
次に、第二の特徴とはどのようなものでしょうか?
「第二の特長は、この『ホログラム原理』を用いると、記録した情報が、記録する媒体の『すべての場所』に保存されているため、媒体の『一部』からも『全体情報』が取り出せるのである。
実際、三次元の映像を記録したホログラフィーのフィルムは、その一部を切り取っても、そこから全体の像が再現できる。解像度は落ちるが、再現できるのである。
従って、もし『「ゼロ・ポイント・フィールド』が、『ホログラム原理』で、この宇宙の出来事の情報を記録しているのであれば、フィールドの『一部』に繋がるだけで、フィールドに記録された『全体情報』に触れることができるのである。」(P132)
極めて高密度の情報記録が「波動情報」として記録可能であり、しかも、「一部の情報」が「全体の情報」ともなりうる——まさに驚くべき原理、それが「ホログラム原理」だというのです。
「科学の常識」の枠を超えた「不思議な体験」
従来の唯物論的科学の考え方では、「意識」は脳が生み出す現象にすぎず、脳が消滅すれば「意識」も消滅する、ということを自明としてきました。つまり、人間が死ねば、肉体も消滅する。もちろん、肉体の一部である脳も同時に消滅する。
したがって、脳が生み出す現象にすぎない「意識」も自動的に消滅する。それで、終わり。「ジ・エンド」ということになるわけです。
脳という「肉体」がなくなれば、「意識」もなくなる。これが、科学のこれまでの「常識」でした。しかし、本書は、そうではないといいます。『死は存在しない』という本書の題名が、それを端的に物語っています。
科学界でこうした主張を唱えることが、どれだけ勇気のいることか。このことは、いくら強調しても足りないくらいです。まさに、勇気と覚悟を持って、科学界のタブーに挑戦しておられる。私はまず、科学者としてのこの著者の勇気に感服しました。敬意を抱きました。
物書きを生業(なりわい)にし、科学本なども書いてきた自分の経験に照らしても、このことは声を大にして申し上げたいと思います。
著者の田坂氏は、本書に述べられている通り、永年、科学者と研究者の道を歩んできて、本来、「唯物論的考え方」を持っておられた人物です。それゆえ、永年、「死後の世界」は存在しないと考えていた、と述べておられます。
それが、なぜ、田坂氏は、「科学の常識」に反して、「死後の世界」が存在すると考えるようになったのか? 科学者としては、考え方の180度の変更、まさにコペルニクス的転回です。理由は、自身の人生において「不思議な体験」を数多くされたからです。「直観」「以心伝心」「予感」「予知」「シンクロニシティ」「コンステレーション」といった「不思議な体験」です。
田坂氏は著書の中で、個人の体験を通し、こうした「不思議な体験」をいくつも紹介されています。たとえば、高速道路での血の海となった大事故を無意識に避けた「予感」、アメリカのスペースシャトルの爆発を感じ取った「予感」などなど。
しかし、こうした「不思議な体験」は、田坂氏に限らず、誰しも多かれ少なかれ持っているものなのではないでしょうか?
何か不思議な胸騒ぎして、その胸騒ぎが果たして的中してしまう。でも、的中しても、私たちはそれを「たまたま」とか「偶然」とかといって済ませがちです。それ以上、深く追求しようとはしません。ましてや、唯物論に凝り固まった旧来の科学界では、そうでしょう。
こうした「不思議な体験」は、従来の科学界では「オカルト的事柄」であり、科学者たちが、まともに向き合おうとはけっしてしなかった「ブラックボックス的問題」です。
今もって、科学界において、科学者がこれらの問題に真剣に向き合おうとすれば、その科学者は科学界からパージされるか、あるいは「異端」として追放されるのがオチでしょう。そんなことは百も承知で、著者の田坂氏は堂々と主張を展開されておられるのです。
「不思議な体験」の中でも、極限的な体験に相当するものが臨死体験でしょう。臨死体験を味わった人の話によれば、まわりからは死んだと思われていた状態にあったものの、その際、病院のベッドに横たわっている自分を上から見ていたとか、お花畑のような世界にいたりとか。また、なんともいえない幸福感、至福感に包まれたりもした。暗いトンネルの向こうに光ある世界が見えたとか、三途の川のような河の対岸に亡くなった肉親や先祖がいて、「ここはまだお前が来るところではない」と追い返されたりとか。
こうした「不思議な体験」は、おのずと「天国」や「霊界」といったものが存在すると考える考え方に、人を導いたりもします。とはいえ、旧来の「唯物論的な考え方」が支配的な科学界では、こうした「不思議な体験」も脳内で起きている現象にすぎない——つまり、「幻想」にすぎない、と捉えます。
田坂氏は、永年、唯物論が支配する科学界で生きてき科学者であり、著書でも書いておられるように、唯物論に基づく考え方をされてきた人物です。ある意味、唯物論を信奉されてこられたわけです。
しかも、科学者として、その履歴が物語るように、世間が認める優秀な科学者であり、立派なキャリアを積み重ねてこられました。当然ながら、あくまで「科学的・合理的な思考」を重んじてこられたわけです。
「新しい科学」への道を示す勇気ある「仮説」
私が、本書の主張に心動かされるの、何よりも、この「科学的・合理的な思考」を貫こうとされているからなのです。「意識」や「死」をはじめ、「不思議な体験」をスピリチュアルな問題として、神秘主義的に語るのではなく、あくまで「科学的・合理的な思考」によって語ろうとされている。
科学者が、科学の専門家として、これまで科学が忌避(きひ)してきた問題に、正面から取り組もうとしておられる——その情熱、勇気、あくなき科学的探究心というものに心惹(ひ)かれるからなのです。この田坂氏の姿勢こそ、科学界で失われがちな、科学者としての良心ある姿勢というものでしょう。
著者にインスピレーションを与えてくれたのは、最先端の量子科学の知見です。著者は、最先端の量子科学の知見を駆使し、この問題に鋭く切り込んでおられます。それこそが、本書を読む醍醐味なのです。著者は、驚くべき「知的冒険の旅」へと読者を誘い込みます。
そして、たどり着いたのが、最先端量子科学が提示する「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」だったというわけです。
もちろん、これは、著者も述べておられるように、現段階では、あくまで「仮説」です。「仮説」ではありますが、この「仮説」は、旧来の凝り固まった古臭い「唯物論科学」を乗り超えるための端緒(たんちょ)となるべき「仮説」です。
最先端の量子科学の知見を踏まえた「新しい科学」への方向を指し示す、勇気ある「仮説」なのです。その意味で、「記念碑的科学本」なのです。
私が、このことを強く強く何度も強調するのは、科学記事や科学本を書いていた自らの経験に照らしてのことです。
拙著『未来のアトム』(アスコム 2001年刊)は、当時のロボット開発最前線を取材した本で、マスコミでもそこそこ取り上げられました。私はその本の中で、科学が扱いかねている「意識」の問題を取り上げ、「意識」が、従来の科学の唯物論的考え方では読み解けない問題であること指摘しました。
そして、二元論的立場に立つベルグソン哲学を紹介しました。主に取り上げたのは、ベルグソンの著書『物質と記憶』です。「意識」は「脳」が生み出す現象にすぎないとする唯物論科学の主張と、「意識」は「脳」の副産物などではない、とする二元論の立場に立つベルグソン哲学の主張を、両論併記という形で述べました。
二元論というのは、「意識」と「脳」、つまり「意識」と「物質」は本来違うもの(二元論)だが、「意識」が発現するためには「物質」を必要とし、「物質」が発現するためには「意識」を必要とする——「意識」と「物質」は、相互補完的、相補的な関係にある、と考える立場に立っています。
そのことで、当時、中央大学理工学部物理学科の助教授だった田口善弘(たぐち・よしひろ)氏が、いかにも旧来の唯物論者らしい、典型的な意見を展開しました。
拙著『未来のアトム』は「科学的におかしいところはないのに」とまず断った上で、科学者たちをたくさん取材した科学本の中で、唯物論以外の立場を紹介するとは何事か——ということで、「これは科学本ではない」と、自身のインターネット上の記事の中で、『未来のアトム』を批判したのです。
もっとも、「二元論」を「唯心論」と誤読するという、田口氏の哲学的教養のなさを露呈する批判でもありましたが。もとより、「二元論」と「唯心論」は、そもそも違うものです。
「唯心論」は、「心」がすべての元であり、「物質」は「仮象」にすぎないとする考え方で、宗教家に多く見られる考え方です。ちなみに、田口氏は、私が連載していた「サイエンス・オデッセイ」(「ワイアード」)という科学者へのインタビュー記事の読者でもあったとのことでした。
しかし、「大学の助教授」という肩書きは、「一介の物書き」にすぎぬ私より、世間の信頼度はやはり高いようで、私は実に不愉快で理不尽な思いをさせられました。
田口助教授のインターネット記事が元になり、「プレジデント」編集部と私との”大喧嘩”につながっていったのです。雑誌「プレジデント」(2001年9月3日号 プレジデント社)の『未来のアトム』についての私へのインタビュー記事をめぐってのことです。
このインタビュー記事で、同誌は「この結びつけ方(注:科学と哲学の結び付け方)はアクロバット的であり、唯物論以外の立場を認めない科学者のサークルからは『異端』だと、まじめに相手にされない。」と述べました。これは私と田口氏のメールでのやりとりにあった田口氏の、いわば「捨てゼリフ」を拾って書かれた記事です。
記事を担当したのは、「プレジデント」誌の女性編集者でした。科学にさほど詳しくもなく、記者としても経験の浅い、この「プレジデント」誌の女性編集者に、私と田口氏とのメールのやりとりを渡したことが発端でした。
結局、「プレジデント」誌のインタビュー記事では、『未来のアトム』がトンデモ本のような印象を与える記事となり、後日、私は謝罪と訂正を求め、「プレジデント」編集部に抗議しました。激しい口論となりましたが、結局、「プレジデント」編集部はこれに応じませんでした。まあ、「論争」とはまったくいえない、低次元の「大喧嘩」でしたが。
しかし、背後にあったのは、科学界や一般社会にある「唯物論」という考え方、科学界や一般社会を支配している「唯物論」という考え方でした。記事を書いた「プレジデント」誌の女性編集者も、もちろん、この「唯物論」に基づいて、教育を受けてきたわけです。
結局、私が闘っていたのは、実は、「唯物論」という「思想」でした。「科学」ではなく、「思想」にほかなりませんでした。
「プレジデント」誌との「大喧嘩」については、いささか複雑な経緯がありますので、ご関心のある方は、私のブログ記事をお読みいただければ幸いです。「『未来のアトム』「プレジデント」誌のインタビュー記事」と題した、私のブログ記事です。
しかし、こんな個人的経緯を持つ私だからこそ、田坂広志氏の著書『死は存在しない』という本に出合って、感動を覚え、衝撃を受けたのです。そのことを、まず、ご理解ください。この本の「革命的価値」が、私にはダイレクトに伝わってきたのです。
田坂氏の量子科学に基づく大胆かつ緻密な「科学的仮説」を、もし、2001年当時の私が知り得る立場にあったとしたなら、中央大学理工学部物理学科の田口善弘助教授とのやりとりや、「プレジデント」誌とのやりとりも、ずいぶんと違っていたものになっていたに違いありません。ちゃんとした「まともな論争」になっていたでしょう。そう思うと、私は、忸怩(じくじ)たる思いを禁じえません。
幅広い知見に裏打ちされた「革命的科学本」
2020年にノーベル物理学賞を受賞したイギリスの著名な数理物理学者のロジャー・ペンローズは、「量子脳理論」を提唱し、「意識」の発生が脳内で起きている量子現象に関係しているのではないか、との鋭い考察を早くから行なっています。
「意識」の発生や活動が、「脳」の活動と深く関係していることは、今日の「脳科学」のいう通りだとしても、「意識」の発生、「意識」の活動、いや、そもそも「意識」の存在自体が、実に謎めいています。
人間の「脳」、人間の「意識」は、「ゼロ・ポイント・フィールド」と、果たして、どのようにして繋(つな)がっているのか? そのプロセス、メカニズム、実証方法などなど、今後、解明されなければならない難解な課題はいろいろあります。
それは、その通りですが、田坂広志氏の著書『死は存在しない』は、その端緒(たんちょ)となるべき書物です。科学界のこれまでの「常識」を、科学的に乗り超える可能性を秘めた、まさに「革命的科学本」であり、「記念碑的科学本」です。今後とも、広く読み継がれていくべき優れた本です。
私は、長年、ベルグソンや小林秀雄氏の著作を愛読してきました。その哲学、思想はもとより、両氏の直観力、分析力の鋭さなどに魅了されてきました。このお二人は、科学的知識を十分にお持ちになり、科学を尊重しながらも、科学に対するこの上ない優れた批判者でもありました。
ベルグソン、小林秀雄氏——もとより、両氏とも、優れた哲学者であり、優れた思想家です。「ただし」というべきでしょうか。両氏は、科学者ではありません。世界の神秘をのぞき込む、神秘的ともいうべきその鋭い直観力を、科学の言葉で記述するには至りませんでした。現代科学、とりわけ量子科学の発達が、まだそこまで至っていなかった、ということも時代背景にあるでしょう。現代科学の最先端をいく量子科学の成果を見届けることなく、お二人はこの世を去ってしまわれました。
しかし、時代は確実に変わりつつあります。偏狭な「唯物論」に基づく、科学のこれまでの「常識」は終わりを告げ、最先端の量子科学の知見に基づく、「新しい科学の常識」へと、科学界も足場を変えていかなければなりません。
私は、田坂広志氏には「科学界の小林秀雄」のような存在になっていただきたい、と期待しています。先端科学の知見を十分に踏まえながら、「科学の常識」に捉われない、「科学の常識」を超える、鋭い批判者としての存在です。、
『死は存在しない』という田坂氏の本を読めば、その教養の深さ、広さは、一目瞭然です。専門とされている科学のことはもちろん、哲学、宗教、社会科学、そして一般社会の事柄——例えば、映画のことなどについても、実に幅広い知識、深い知識をお持ちです。この幅広い知識、深い知識は、小林秀雄氏などとも共通するものです。
逆にいえば、こうした幅広い知識、深い知識をお持ちだからこそ、科学界のこれまでの「常識」とされてきた「唯物論」という巨大で頑迷な「牢獄」の中から、自由に羽ばたく翼を獲得されるに至ったのでしょう。
この本の出版も含め、田坂広志氏の鋭い洞察と幅広い知見が、「新しい科学への灯台」のような役割を果たされんことを切に願うものです。



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