『量子力学で生命の謎を解く』を読む
- Nobukazu Tajika
- 1月30日
- 読了時間: 64分
更新日:3月7日
■『量子力学で生命の謎を解く』より
ジム・アル=カリーリ
/ ジョンジョー・マクファデン 共著
水谷淳 訳
発行:SBクリエイティブ(株)
2015年9月25日 初版発行
物理学と生物学の専門家による
新たな科学「量子生物学」
現代科学の進展を見る上で、興味深い一冊がありますので、ご紹介したいと思います。『量子力学で生命の謎を解く』(SB クリエイティブ刊)という一冊です。初版は2015年、2024年には12刷が発行されていますので、いわゆる売れ筋の本ということになります。専門書的な内容の割には、よく売れている。それだけ、本書が注目されているということでしょう。
同書は、近年、著しい進歩を見せている量子生物学によって、生命の謎を読み解こうとする本です。ちなみに、量子生物学とは、量子物理学と生化学・生物学を融合した科学の新分野です。
同書は共著です。著者の一人ジム・アル=カリーリは、1962年にイラクで、イラク人の父親とイキリス人の母親との間に生まれました。1979年にイギリスへ移住し、1989年にサリー大学で物理学の博士号を取得。原子核物理学の研究を進め、現在、サリー大学の物理学教授として、原子核物理学と並行して量子生物学を研究しているとのことです。
もう一人の著者ジョンジョー・マクファデンは、1956年アイルランド生まれで、1982年にインペリアルカレッジ・ロンドンで生物学の博士号を取得。ロンドンのいくつかの医科大学で遺伝病や感染症の研究を行い、その後、ジム・アル=カリーリと同じサリー大学に着任し、病原微生物の遺伝研究と併せて、量子生物学やシステム生物学の研究を行っているとのことです。
物理学と生物学の専門家たちが、専門知識を寄せ合って著したのが本書であるというわけです。本書の冒頭の「謝辞」で、共著者たちはこう述べています。
「私たち二人はそれぞれ物理学と生物学の世界で身につけた専門知識を持ち寄っているため、当然ながら、どちらも一人だけでこの本を書くことはできなかったはずだ。さらに言うと、ほとんどが各分野の世界的なリーダーである大勢の人の手助けとアドバイスがなければ、大いに誇れるような本を作り上げることはできなかったに違いない。」
私がこの本を手に入れたのは、2024年7月ですが、奥付を見ると、すでに第12版と版を重ねていますので、著者たちの新分野への取り組み、意気込みは読者に大いに伝わっているようです。
本書には、こうした記述も見られます。
「重ね合わせやトンネル効果といった量子現象は、植物が太陽光を捕らえるしくみから、我々の細胞が生体分子を作るしくみまで、多種多様な生命現象で見つかっている。我々の嗅覚や、両親から受け継いだ遺伝子でさえ、不気味な量子の世界に頼っているのかもしれない。いまや量子生物学に関する論文が、世界有数の科学雑誌にたびたび掲載されている。また、生命現象には量子力学の一面が重要な欠かせない役割を果たしていて、量子の世界と古典的世界の縁に位置するそうした不気味な量子的性質を維持する特異な存在が生命であると主張する科学者の数も、少ないながら徐々に増えている。」(P24〜25)
量子生物学が対象としている生命現象は多岐にわたります。本書では、生命現象の例として、酵素作用、光合成、呼吸、嗅覚、磁気感覚、遺伝などを取り上げ、そこに量子力学がどのように決定的な役割を果たしているかについて、解析を進めています。そして、さらに、生命の起源、人間の意識の謎へも迫っていきます。
本書は、あくまで科学書ですが、科学にとって、いや、科学という枠組みを超えて、人類にとって、永遠の「謎」といっていい問題に踏み込もうとする点において、ある意味、SF的興味をも喚起するところがあります。その意味で、一般人にも好奇心をそそる、情報力と分析力に満ちた刺激的な内容になっていると思います。一読に値する科学書であると思います。
科学最大の謎
「宇宙・生命・意識」の起源
本書は科学最大の「謎」として、次の3つの「謎」を挙げます。宇宙の起源、生命の起源、意識の起源、それら3つの「謎」です。
私が、別のブログ記事(拙著『未来のアトム」⦅アスコム⦆をめぐる「プレジデントのインタビュー記事について」)で述べました、某物理学助教授の低次元の発想と比べれば、この二人の科学者の問題意識の高さがよくわかります。某物理学助教授によれば、意識とは「脳の機能に過ぎない」とのことです。実に単純、浅薄な見方であり、軽薄な唯物論者の見解そのものです。それと比べれば、意識を科学最大の謎の1つと見なす同著の共著者たちとの見識は、まさに本格的な科学者のものの見方といえましょう。その見識の差は、歴然としています。
意識の解明には、何を置いても、同著の共著者たちのような見識、問題意識が必要なのです。意識を「脳の機能に過ぎない」といって済ませてしまうような、単純かつ浅薄な唯物論科学者の低次元の見解、そこにまったく「謎」を感じない人間音痴な、鈍感極まりない、旧来の唯物論に凝り固まった科学者の見解———その違いが明らかにわかるというだけでも、本書の共著者たちの見解には大いに賛同しますし、本書は、その意味でも一読の価値があります。
とはいえ、本書はあくまで唯物論を是とする、唯物論に基づく科学書である、という点では、まさにその通りです。また、それが、現在における科学、並びに科学書であることの定義であるといえば、まさにその通りということになります。ですから、唯物論の姿勢を崩さず、量子力学という現代科学の最前線の知見を踏まえ、どれだけ現代科学が「意識」の謎に迫れるのか、迫っているのかという点が、本書の読みどころということになります。
本書では、こう述べられています。
「細胞を活かしているのは何なのか? はじめの頃は、細胞にはアリストテレスの説いた魂の概念に相当する『生命力』が詰まっていると広く考えられていた。そして一九世紀後半になるまで、生命体は非生物にはない力によって活かされているという、正気論の考え方が信じられていた。細胞に詰まっている謎めいた物質は『原形質』と呼ばれ、この言葉はかなり神秘的な意味合いで使われていたのだ。
しかし、一九世紀の何人かの科学者が、細胞のなかから実験室で合成されるのと同じ化学物質を単離したことで、生気論は徐々に足場を失っていった。(中略) 生気論は徐々に機械論に取って代わられていった。」(P41)
「一九世紀末には、生化学者が生気論者に対してほぼ完全に勝利を収めていた。細胞は、複雑な化学反応で作用する生体物質の入った袋であるが、その根幹をなしているのは、ボルツマンが明らかにしたビリヤードの球のような分子のランダムな運動であるとみなされたのだ。生命は実際に複雑な熱力学的な系にすぎないという考え方が、徐々に広まっていった。(中略)メンデルの言う因子は『遺伝子』と名前を変え、二〇世紀に急成長した機械論的な生物学にすぐに組み込まれた(P41〜43)
そうした科学の流れの中で、1953年、ジェイムズ・ワトソンとフランシス・クリックの二人の科学者がDNAの「二重らせん」構造を発見しました。これは、あまりに有名な話です。DNAの構造が明らかになったことで、遺伝子の謎を機械論的に解き明かす鍵が手に入りました。遺伝子は化学物質であって、化学は熱力学として読み解けるというわけです。
ということは、「二重らせん」の発見によって、生命は古典的な科学の範疇(はんちゅう)に入ったのでしょうか? 本書の共著者たちは、そう問いかけます。
立ちはだかる「生命の謎」
科学はいまだに生命を創造できない
この問いかけに対する共著者たちの答えは、「ノー」です。生命は、古典的な科学の範疇では読み解けないことが、ますます明らかになっていきます。その謎の解明に挑むべく、新たに量子生物学というものが生まれてきたというわけです。
本書では、こう述べられています。
「細胞のなかで熱力学がどのように作用していて、細胞を作るのに必要なすべての情報が遺伝子にどのように暗号化されているかは分かっているものの、実際のところ生命は何なのかという謎は、いまだに我々に向かってにやにやした笑いを浮かべているのだ。
一つ問題となるのは、細胞のなかで進行している生化学反応があまりにも複雑なことだ。(中略)あなたの身体のなかにある一個一個の細胞は、わずか一〇〇万分の数マイクロリットルの液体で満たされた反応容器のなかで、何千種類もの生体物質をたえず合成しつづけている。そうした多種多様な反応がどうやって同時に進行しているのか? そして、ミクロな細胞のなかでそれらの分子の作用はどうやって統制されているのか?
これらの疑問は『システム生物学』という新たな研究分野のテーマだが、贔屓(ひいき)目に言ってもその答えはいまだに謎のままなのだ!」(P45〜46)
そして、本書は「死」の謎にも言及します。
「生命に関するもう一つの謎が、死である。化学反応はつねに可逆であるという特徴がある。化学反応は、『反応物➝生成物』と一方向に書くことができる。しかし実際には必ず、
『生成物➝反応物』という逆反応も同時に進行する。(中略)
しかし生命はそうではない。これまで、『死んだ細胞➝生きた細胞』という方向が優勢になるような条件は一度も発見されていない。もちろん我々の先祖たちは、この謎を踏まえて魂という概念を考え出したのだった。
いまでは、細胞が何らかの魂を持っているなどとは考えられていない。しかしそうだとしたら、細胞やヒトが死んだときに取り返しの付かない形で失われるものは、いったい何なのだろうか? ここで次のように考えた人もいるかもしれない。新たに登場した合成生物学という分野はどうなのか? この分野の研究者は当然ながら、生命の謎を解く鍵を持っているはずではないか?
合成生物学の研究者のなかでおそらくもっとも有名なのは、二〇一〇年に『人工生命』を作り出したと主張して科学者のあいだに議論を巻き起こした、ゲノム配列決定技術の草分けクレイグ・ヴェンターだろう。(中略) しかしヴェンターのチームは、本当に新しい生命を作る出したのではなく、既存の生物に手を加えただけだった。
まず、ヤギの病気を引き起こすマイコプラズマ(Mycoplasma mycoides )という病原菌のゲノム全体をコードしたDNAを合成した。次に、その合成したDNAゲノムを生きている細菌に注入し、巧妙な方法を使って、もともと持っていた染色体をその合成DNAに置き換えさせたのだ、間違いなく技術的偉業だ。」(P46〜47)
「ヴェンターの研究チームが細菌の代用染色体を合成して注入するのに成功したことで、合成生物学というまったく新たな分野の道が開けたという話は、最後の章で再び取り上げる。合成生物学は、薬の合成や作物の生長や汚染物質の分解のためのもっと効率的な方法をもたらしてくれるだろう。
しかしこのような数々の実験では、新しい生命は作られていない。ヴェンターは確かに偉業を成し遂げたが、生命の本質的な謎はいまだに我々に向けてにやにやと笑いつづけている。ノーベル賞を受賞した物理学者リチャード・ファインマンは、『作ることができないものは理解したことにならない』と主張したという。この定義によれば、我々はいまだに生命を作ることができていないのだから、生命は何なのかを理解していないことになる。(中略)
ではなぜ我々は、きわめて原始的な微生物が毎秒何兆回も難なくおこなっている芸当をいまだに実現できていないのだろうか? これは有名な物理学者エルヴィン・シュレーディンガーが七〇年以上前に深く考察した疑問で、それに対してシュレーディンガーが出した仰天の答が本書のテーマの核をなしている。」(P47〜48)
現代科学においても、いまだ生命創造はできておらず、生命とは何なのかという「謎」の解明に成功していないという共著者たちの表明は、見解ではなく、あくまで事実に基づく事実認識であり、このことは科学者のみならず、私たち一般の読者がしかと胸に刻んでおくべき事柄でしょう。
「量子革命」の経緯
科学や科学者たちのドラマ
本書では、科学界に量子力学が誕生してき経緯や、それによる「量子革命」のことが詳しく述べられています。そして、これに関わる科学者たちの個人的な背景なども述べられています。加えて、「量子革命」以前の科学史や、それまでの科学者たちのことなども述べられていますので、量子力学の歴史にとどまらず、科学史や科学者たちを俯瞰(ふかん)することができます。科学や、科学者たちのドラマを知るという点でも、本書は一読に値するといえましょう。
さて、「量子革命」について、概略を見ていきましょう。本書はこう解説します。
「一八世紀から一九世紀の啓蒙運動の時代、科学の知識が爆発的に増えてニュートン力学や電磁気学や熱力学が生まれ、この三つの物理分野によって、砲弾から時計、嵐から蒸気機関車、振り子から惑星に至るまで、この世界で日常的に見られるあらゆるマクロな物体の運動や現象が見事に説明された。
しかし一九世紀後半から二〇世紀前半、物質のミクロな構成要素である原子や分子に関心を向けた物理学者は、もはや馴染みの法則に当てはまらないことに気づいた。物理学に革命が必要になったのだ。
最初の大きなブレークスルーとなった『量子』という概念は、ドイツ人物理学者マックス・プランクが一九〇〇年一二月一四日にドイツ物理学会である研究結果を発表したときに生まれ、この日が量子論の誕生日だと広くみなされている。」(P48〜49)
科学に「量子革命」を起こすきっかけとなったプランクは、どんなことを提唱したのでしょうか? 本書の説明に耳を傾けましょう。
「当時の伝統的な考え方では、熱放射はほかの形態のエネルギーと同じく空間内を波として伝わるとされていた。しかしその波動説では、熱い物体がエネルギーを放射する様子を説明できないという問題があった。
そこでプランクは、その熱い物体の内部にある物質は飛び飛びの決まった振動数で振動しており、そのため熱エネルギーは不連続の微小な塊、つまり『量子』としてのみ放射し、その塊はそれ以上分割できないという画期的な説を提唱した。この単純な理論は驚くほどの成功を収めたが、エネルギーを連続的なものとみなす古典的な放射の理論とは完全にかけ離れていた。」(P49)
このプランクの説は、アインシュタインの「光子」へとつながっていきます。
「それから五年後にアルベルト・アインシュタインがそのような考え方を拡張して、光を含むすべての電磁気放射も連続的でなく『量子化』されており、不連続な塊、いまで言う光子という粒子として伝わるのだと考えた。
そして、光をこのような形で考えれば、光によって物質からはじき出される、光電効果と呼ばれる長年の謎の現象を説明できると提唱した。アインシュタインは一九二一年にノーベル賞を受賞したが、それはこの研究に基づく受賞であって、もっと有名な相対論に基づくものではなかった。」(P49)
とはいうものの、光が広がっていく連続的な波、つまり光が波動としてもふるまうという証拠も、当時から数多くありました。光は、塊であると共に波動でもある、という二重性を帯びていたのです。この事実は、古典的な科学の枠組みでは理解できないことでした。新たな理論が必要とされました。そこに登場してきたのが、デンマーク人の物理学者ニールス・ボーアであり、ドイツ人の物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクです。
ハイゼンベルクは、有名な「不確定性原理」の提唱者として知られています。「不確定性原理」とは、電子の位置と速度は、同時に測定できない、という原理です。現代の量子力学の基礎となる原理です。
そしてまた、この時期、オーストリア人の物理学者エルヴィン・シュレディンガーが登場してきます。シュレディンガーは、人間が観測していないときは、電子は実在する波動であるけれども、観測すると「収縮」して、独立した粒子になると提唱しました。シュレディンガーの理論は「波動力学」と呼ばれ、これも現代の量子力学の基礎となる理論です。
ハイゼンベルクもシュレディンガーも、現代科学の「観測問題」といわれる量子力学の最も不可解で難解な問題に、深く関っています。こうして、一九二〇年代後半には、量子力学な数学的な土台ができました。
シュレディンガーの鋭い考察
『生命とは何か』
そして、いよいよ、本書の中心テーマである「量子生物学」の幕開けとなっていきます。本書は、「シュレディンガーに焦点を当てます。シュレディンガーは物理学者でありながら、『生命とは何か』という本の著者でもあり、生命現象を深く考察した科学者でもあります。
「量子生物学の炎は、ほかならぬ量子波動力学の創始者エルヴィン・シュレディンガーによって燃やされつづけた。(中略) シュレディンガーいわく無秩序から秩序が生まれるからである。シュレディンガーは、多数の粒子の統計的性質から正確さが生まれてくるのは気体の法則だけではないと論じた。流体の運動や化学反応を支配する法則を含め、古典的な物理学と科学の法則はすべて、この『多数の粒子の平均化』つまり『無秩序から秩序へ』の原理に基づいているのだ。」(P59〜61)
しかし、生命はどうなのでしょうか? 遺伝の法則などは、統計的な法則で説明できるのでしょうか? 本書の共著者たちは、こう述べます。
「この疑問について深く考察したシュレディンガーは、熱力学の根幹をなす『無秩序から秩序へ』の原理が生命を支配していることはありえないと結論づけた。なぜなら、シュレディンガーも見抜いたとおり、微小な生物学的仕掛けの少なくとも一部は、あまりに小さくて古典的な法則には支配されないからである。(中略)
遺伝の不正確さ、つまり『ノイズ』のレベルは、一〇〇〇分の一、すなわち〇・一パーセントの桁になるはずだ。したがって、もし遺伝が統計的な古典的法則に基づいているとしたら、一〇〇〇回に一回のレベルでエラー(法則からのずれ)が起きるはずだ。しかし遺伝子の伝達はかなり正確におこなわれ、変異率(エラー)は一〇億分の一未満であることが知られていた。
シュレディンガーはこのようなきわめて高い忠実性に基づいて、遺伝の法則が古典的な『無秩序から秩序へ』の法則に基づいているはずはないと確信した。そして、遺伝子は一個一個の原子や分子のようなものであって、自らが構築に関わった非古典的だが奇妙に秩序立った法則、すなわち量子力学に支配されているのだと提唱した。遺伝は、『秩序から秩序へ』というまったく新しい原理に基づいているというのだ。」(P62〜63)
しかし、シュレディンガーのこうした主張は、当時、疑いの目で見られたといいます。
「シュレディンガーのこの本(注:『生命とは何か』)が出版されたのちに、DNAの二重らせんが発見され、量子現象にほぼ頼ることなく分子生物学が急速に発展した。遺伝子クローニング、遺伝子工学、ゲノム指紋法、ゲノム配列解析はおもに、数学的に難解な量子の世界を無視して済ませる生物学者の手で編み出された。
ときには生物学と量子力学の境界領域に足を踏み入れることもあった。しかしほとんどの科学者はシュレディンガーの大胆な主張を忘れ、そのうちの多くの人はさらに、生命を説明するには量子力学が必要であるという考え方にあからさまな敵意を示した。(中略)
当時シュレディンガーの主張が疑いの目で見られたのは、生命体の内部という温かく湿っていてせわしない環境のなかで華奢な量子状態が存在しつづけられるはずはないと、一般的に考えられていたことが大きかった。」(P64〜65)
生命現象に深く関与する
「量子トンネル効果」
しかし、今日、量子生物学の発達に伴って、シュレディンガーの主張は見直されてくるようになります。生命現象に量子力学が深く関係していることが明らかになってきたからです。本書では、酵素、光合成、呼吸、嗅覚、磁気感覚、遺伝など、生命活動に見られる作用、働き、その仕組みを取り上げ、そこに、どのように量子力学が深く関与しているかを分析していきます。
これらのことについて述べていくと、本書のまるごとの紹介となり、長くなってしまいますので、詳しくは述べません。詳細が知りたい方は、本書を一読していただければと思います。
さて、ここで、述べておきたいのは量子力学に見られる奇妙な性質のことです。その一つが「量子トンネル効果」です。量子トンネル効果というのは、音が壁を通り抜けるのと同じように、通り抜けることが不可能と思われる障壁を、粒子(量子)がやすやすと通り抜けてしまうという奇妙な量子プロセスです。
量子力学の重要な特徴として、軽い粒子ほど容易にトンネル効果を示すことが知られています。本書はこう説明します。
「量子トンネル効果はその重要な特徴として、ほかの多くの量子現象と同じく、物質粒子が広がった波動のような性質を持っているために起きる。しかし、膨大な数の粒子からなる物体がトンネルするには、すべての構成粒子の波動的性質が山や谷を一致させて歩調を合わせ、コヒーレントと呼ばれる状態、すなわち『同調』した状態を保っていなければならない。
逆に、多数の量子波がすべてあっという間に歩調を乱して、全体のコヒーレントな振る舞いが消し去られ、物体が量子トンネル効果を起こす能力を失ってしまうプロセスを、デコヒーレンスという。
粒子が量子トンネル効果を起こすには、障壁をすり抜けるために波動の状態を保っていなければならない。そのため、フットボールのような大きい物体は量子トンネル効果を起こさない。何兆個という原子からできており、調和したコヒーレントな波動として振る舞うことはできないからだ。
量子の基準から見れば細胞も大きい物体なので、一見したところでは、原子や分子がほぼでたらめに動き回っている温かく湿った細胞のなかに量子トンネル効果が見つかるとは思えない。しかし先ほど説明したように、酵素の内部は違っており、粒子は無秩序に騒いではおらず、一糸乱れぬダンスを踊っている。」(P101)
本書はこう問いかけます。
「しかし、陽子や原子などもっと大きい粒子についてはどうだろうか? 生物系ではそのような粒子もトンネル効果を起こせるのか? 一見したところその答えはノーだと考えられる。陽子一個でさえ電子の二〇〇〇倍の重さがあり、量子トンネル効果は粒子の重さにきわめて大きく左右されることが知られている。軽い粒子は容易にトンネルするが、重い粒子は、きわめて短距離でない限りなかなかトンネルしようとしないのだ。
しかし最近の驚くべき実験によって、酵素反応ではそのような比較的重い粒子もトンネル効果を起こせることが明らかになっている。」(P103)
「量子トンネル効果」は
酵素の作用にも見られる
生命現象に欠かせぬ酵素。酵素の作用には、量子トンネル効果が深く関わっていると本書は説きます。
「酵素は、現在生きているものもかつて生きていたものも含め、すべての細胞のなかで一個一個の生体分子を作ったり壊したりしている。いわゆる生命力というものにもっとも近い存在だ。そのため、一部の、またはもしかしたらすべての酵素が、ある場所にあった粒子を非物質化すると同時に別の場所で物質化することで作用しているという発見は、生命の謎にまったく新しい光を当ててくれる。
そして酵素に関しては、たんぱく質が振動している理由など、さらに解明しなくてはならない未解決の問題がいくつも残ってはいるものの、その作用に量子トンネル効果が役割を果たしていることに疑いはないのだ。(中略)
量子トンネル効果は魔法でも何でもなく、この宇宙が誕生して以来ずっと起きつづけている。もちろん、生命が『発明』した芸当などではない。それでも私たち二人は、細胞のなかが温かく湿っていてせわしないことを考えると、酵素の作用に量子トンネル効果が関係しているのはけっして当たり前のことではないのだと主張したい。
細胞はとてつもなく混み合った場所で、つねに激しく動き回る複雑な分子でいっぱいになっている。」(P108〜109)
量子トンネル効果を起こすには、量子がコヒーレントな状態、すなわち「同調」した状態が必要です。この量子コヒーレント状態が、生命現象の中で起きている、というわけです。
「植物や微生物といった温かくて湿っていて荒れ狂った系のなかに量子コヒーレント状態が発見されたことは、量子物理学者にとてつもない衝撃を与えた。
そしていまでは、生命系がどのようにして壊れやすい量子コヒーレント状態を保護して利用しているかを解き明かそうと、かなりの研究がおこなわれている。」(P148)
この本の共著者たちの根底には、世界を支配している法則はただ一つ、量子法則だとの見方があります。これが、本書を貫く、揺るぎない信念です。共著者たちは、こうはっきり述べています。
「我々にとって量子の世界はとても奇妙であり、その奇妙さは、身の回りに見える世界とその土台をなす量子の世界とが完全に分け隔てられているせいだとよく言われる。
しかし実際には、この世界の振る舞いを支配している法則はただ一つ、量子法則だけだ。馴染みの統計的な法則やニュートンの法則は、突き詰めてみれば、量子法則をでデコヒーレンスというレンズを通して見ることで、不気味な要素をふるい落としたものにほかならない(だからこそ我々には量子現象は不気味に見える)。深く掘り下げていけば、見慣れた現実の奥底には必ず量子力学が潜んでいるのだ。
さらに言うと、マクロな物体にも量子現象に影響を受けやすいものがいくつか存在し、そのほとんどが生物である。(中略)
酵素の内部で起きる量子トンネル効果は細胞全体に影響を与える。また、地球上にあるほとんどの生物有機体を生産するのに必要な光子捕獲の第一段階は、温かいが高度に組織化された葉や微生物の内部で、壊れやすい量子コヒーレント状態を生物的に意味のある時間だけ維持できるかどうかにかかっている。
ここにも、シュレディンガーの言う、量子現象を利用した『秩序から秩序へ』、あるいはヨルダンの言う、量子現象からマクロな世界への『増幅作用』が見て取れる。どうやら生命は、量子の縁に留まって量子の世界と古典的な世界とを橋渡ししているらしい。(P149〜150)
生命現象に深く関わる
「量子もつれ」
本書では、量子現象に見られる不思議で奇妙な現象、いわゆる「量子もつれ」が、生命現象に深く関わっている、との見方も示していきます。
鳥が持つ独特なコンパス。例えば、コマドリがどのようにして、飛ぶべき方角を知るのか? 地磁気のような弱い磁場が、一体、どのようにして、コマドリの体内に化学反応を起こさせるだけの十分なエネルギーを与えるのか? コマドリの体内で発現する生物学的信号に着目し、そこに「量子もつれ」が関係しているのではないかと推測しています。
本書では、「量子もつれ」をこう解説しています。
「量子力学について説明した多くの一般書では、素粒子の世界がいかに奇妙かを強調するために『量子スピン』の概念が使われている。(中略) 地球が太陽の周りを公転しながら自転しているのと同じように、電子などの素粒子も、通常の運動とは別に『スピン』と呼ばれる性質を持っている。
しかし第一章で触れたように、この『量子スピン』は、テニスボールや惑星など、日常経験する回転している物体に基づいてイメージできるような代物ではない。まず、電子の自転速度について論じるのは意味がない。スピンは、二つの値のうちの一つしか取ることができない。量子レベルでのエネルギーと同じように、量子化されているのだ。
おおざっぱな表現で言うと、電子は時計回りと反時計回りのどちらかのスピンを取り、それらをふつう『上向き』スピン状態と『下向き』スピン状態と呼ぶ。そしてここは量子の世界なので、電子は観察されていないときには同時に両方向にスピンできる。それを、上向きスピンと下向きスピンの重ね合わせ状態(組み合わせとか混ぜ合わせといった意味)と呼ぶ。
電子が同時に二か所に存在できることよりも、ある意味もっと不気味に聞こえるかもしれない。一個の電子がいったいどうやって、同時に時計回りと反時計回りで自転できるというのだろうか?
量子スピンの概念がどれほど直感に反しているかをさらに物語る例として、我々が三六〇度回転とみなしている操作を電子に施しても、もとの状態には戻らない。もとに戻すには二回転させなければならないのだ。(中略)
電子は微小な球体でないどころか、大きさもまったく持たないとされている。そのため、量子スピンはテニスボールの回転と同じく『現実』ではあるものの、日常の世界でそれに対応するものはなく、絵に描くことはできないのだ。
しかしだからといって、教科書や難解な物理学の講義にしか登場しない抽象的な数学的概念にすぎないなどとは考えないでほしい。あなたの身体を含め宇宙の至るところに存在する一個一個の電子は、このような奇妙な形でスピンしているのだ。もしスピンしていなかったら、我々自身を含めこの世界は存在しなかっただろう。化学全体の土台をなしている、パウリの排他原理と呼ばれるきわめて重要な法則において、量子スピンは中心的な役割を果たしているのだ。
パウリの排他原理から導かれる帰結の一つとして、二個の電子が一つの原子や分子のなかでペアを作っていて、しかも同じエネルギーを持っているとき(第3章で話したように、分子を一つにまとめている化学結合は、原子どうしで共有する電子からできている)、それらの電子は互いに逆向きのスピンを取らざるをえない。
するとそれらのスピンは互いに打ち消し合っていると考えることができ、そのとき電子のペアは一つの状態しか取ることができないため、これを『スピン一重項状態』と呼ぶ。原子やほとんどの分子に含まれる電子のペアは、ふつうはこの状態にある。
しかし同じエネルギーレベルでペアになっていない場合には、二個の電子が同じ方向へスピンすることがあり、それを『スピン三重項状態』と呼ぶ。(中略)
このような『不気味な遠隔作用』(と表現されることが多い)は日常の古典的な世界では見られないが、量子の世界ではきわめて重要な特徴である。専門用語では『非局在性』とか『もつれ』といい、『ここで』起きた出来事が瞬時に遠く離れた『あそこ』に影響を与えることを指す。」(P204〜206)
アインシュタインが「不気味な遠隔作用」と呼んだ、量子力学の奇妙な世界のことが語られています。さらに、「量子もつれ」に関する同書の解説を追っていきましょう。
「地球と火星でサイコロを使ってこの実験がおこなわれたことはないが、量子もつれ状態にある粒子を使った同様の実験は地球上で何度もおこなわれている。その結果、互いに引き離された粒子はいまのサイコロと同じたぐいのトリックを演じられることが証明されている。つまり、互いの距離に関係なく相関した状態を保ちつづけるのだ。
量子の世界が持つこの奇妙な性質は、アインシュタインによる速度の上限を無視しているように思える。二個の粒子が互いにどんなに離れていても、一方の粒子が瞬時にもう一方に影響を与えるのだ。
この現象を指す『もつれ』という用語を考え出したシュレディンガーは、アインシュタインと同じく、『不気味な遠隔作用』の存在を疑っていた。ところが、量子もつれの存在は数々の実験によって証明されて、量子力学のきわめて基本的な概念となり、物理学や化学、そしてこのあと話すように生物学でも、さまざまに実例が見つかっっている。」(P208)
「量子もつれ」が、生物学にどのように関係してくるのでしょうか? それを理解するためには、「二つの概念を組み合わせなければならない」と、共著者たちは主張します。
「一つめは、空間を隔てて二個の粒子が瞬時につながる、量子もつれ。二つめは、一個の粒子が同時に二つ以上の状態の重ね合わせ状態を取れること」(P208〜209)
そして、共著者たちは、鳥のコンパスに「量子もつれ」が深く関係していることを推測します。
「原子どうしの結合は電子のペアを共有することで作られる。その電子のペアは必ず量子もつれの状態にあり、しかもほぼ必ず一重項状態にある。つまり互いに反対向きのスピンを持っている。
しかし驚くことに、その二個の電子は、原子間の結合が切れたあとでも互いにもつれ状態を保つことができる。その切り離された原子を『遊離基(ラジカル)』といい、場合によってはその遊離基が持っている電子のスピンが反転する可能性がある。
そのため、もはや互いに別々の原子のなかにあるその量子のもつれ状態の電子のペアは、一重項状態と三重項状態の重ね合わせ状態になる。シュルテンの高速三重項反応でもそうなる。
この量子重ね合わせ状態の重要な特徴として、必ずしも一重項状態と三重項状態との釣り合いが取れている必要はなく、量子もつれ状態にあるその電子ペアが一重項状態で観測される確率と三重項状態で観測される確率は、等しいとは限らない。
そして肝心なことに、その二つの確率のバランスは外部磁場の影響を受けやすい。電子のペアの方向に対して磁場のなす角度が、一重項状態または三重項状態で観測される確率に強い影響を与えるのだ。(中略)
したがって、鳥のコンパスのなかにある何かきわめて高い振動数で振動するものが、磁場と共鳴したということになる。明らかに、磁石でできた従来のコンパスとは辻褄が合わず、一重項状態と三重項状態の重ね合わせ状態にある量子もつれ状態の遊離基ペアと合致する。
この結果から考えると、狭い範囲の振動数の電磁波だけが鳥のコンパスを乱すのではないらしい。このように、鳥のコンパスはまだいくつもの謎が残されている。(中略)
二〇一一年にオックスフォード大学のヴラトゥコ・ヴェドラルの研究室が、提唱されている遊離基ペアコンパスの量子理論計算をおこない、重ね合わせ状態ともつれ状態は少なくとも数十マイクロ秒維持されるはずだということを示した。同種の人工的な分子システムの多くをはるかに上回る長さだし、コマドリが飛ぶべき方角を知るのにも十分な長さだろう。
こうした優れた研究によって磁気受容に対する関心が爆発的に広がり、いまでは、さまざまな種の鳥、イセエビ、アカエイ、サメ、ナガスクジラ、イルカ、ハチ、さらには微生物といった幅広い生物種で磁気受容が見つかっている。」(P212〜219 )
この事実を踏まえて、共著者たちは、さらにこう推測します。
「自然界にこれほど幅広く磁気感覚が存在し、メカニズムも広く共通していることから考えると、この能力はある共通の祖先から受け継がれたものではないかと思われる。しかし、ニワトリとコマドリとショウジョウバエと植物とゴキブリの共通の祖先は、はるか昔、五億年前にさかのぼる。量子コンパスはきわめて古い代物だろう。(中略)
アインシュタインの言った不気味な遠隔作用は、地球の歴史の大部分を通じて、生物たちに長距離を動き回る手助けをしていたのかもしれないのだ。」(P219〜220)
生命現象をコードする遺伝子は
「量子の文字」で書かれている!?
私たち生物を形作る遺伝子。この遺伝子は、量子力学存在なのでしょうか? この本質的な問いを、この本の共著者たちは投げかけ、結論を求めていきます。
「エルヴィン・シュレディンガーは、遺伝情報がどのようにして世代から世代へ忠実に伝えられるのかという遺伝子の謎に基づいて、遺伝子は量子力学的な存在だと確信したのだった。しかし、シュレディンガーは正しかったのだろうか?」(P226)
この問いに答えるべく、共著者たちは、DNA複製の際のエラーの確率に注目します。
「生物が自身のゲノムを正確に複製できるのは当然だと考えがちだが、むしろそれは、生命の持つもっとも注目すべき重要な能力の一つである。DNA複製のエラー、すなわち突然変異の発生率は、ふつうは一〇億分の一未満だ。(中略)
湿っていてぐにゃぐにゃした物質から複製マシンを組み立てるのをイメージしてみてほしい。複製する情報を読み取って書き出す際に、どれほどのエラーが生じることだろう。
ところが、その湿っていてぐにゃぐにゃした物質があなたの身体のなかの細胞で、情報がDNAにコードされていると、エラーの数は一〇億個中一個よりも少なくなるのだ。
とてつもなく複雑な生体組織を作るには、それと同じくらい複雑な指示書が必要で、たった一つのエラーが致命的になりかねないため、忠実度の高い複製プロセスは生命にとって欠かせない。ヒトの細胞に含まれているゲノムは約三〇億個の遺伝文字からできていて、約一万五〇〇〇個の遺伝子をコードしているが、ヴォストーク湖の氷の下に棲んでいるようなきわめて単純な微生物のゲノムでも、何千個もの遺伝子が数百万個の遺伝文字で書かれている。」(P227)
DNAが「二重らせん」構造であることを見つけたのは、フランシス・クリックとジェイムズ・ワトソンです。一九五三年のことです。この「二重らせん」について、共著者たちは論考を進めていきます。
ちなみに、DNAのらせん構造は、糖とリン酸からなる背骨からできていて、そこに、実際の情報を伝えるグアニン(G)、シトシン(C)、チミン(T)、アデニン(A)という塩基配列が乗っかっています。
「しかしその二重らせんは、基本的にただの足場でしかない。DNAの真の秘密は、このらせんが支えているものに潜んでいるのだ。」(P228)
「ワトソンとクリックは歴史的論文の最後の文で『我々が仮定した特定の対形成からただちに、遺伝物質の複製機構と考えられているものが示唆されていることに、気づかざるをえなかった』。二人が気づかざるをえなかったのは、この二重らせんの重要な特徴として、一方の鎖に乗っている情報、すなわち塩基配列が、もう一方の鎖に相補的に複製されていることだ。
つまり、一方の鎖に乗っているAは必ずもう一方の鎖のTと対をなしており、同様にGは必ずCと対をなしている。鎖どうしでのこの特定の塩基対形成(AとTのペア、CとGのペア)は、水素結合という弱い化学結合によって作られている。二つの分子をつないでいるこの『糊』は、基本的に陽子を共有することで作られている。そこがこの章の話の肝となるので、その性質についてはこのあともっと詳しく考えてみたい。
しかし、ペアのDNA鎖どうしを引き剥がし、それぞれの鎖を鋳型にしてそれに相補的なもう一方の鎖を組み立てることで、もとの二重らせんの複製を二つ作るのだ。細胞分裂の際、遺伝子はまさにこのようにして複製される。」(P230)
そして、ここで、共著者たちは、再びシュレディンガーの主張に焦点を当てます。
「驚くほど単純なこのプロセスが、地球上のあらゆる生命の繁殖を支えている。しかしシュレディンガーは一九四四年に、遺伝のとてつもなく高い忠実性は古典的な法則では説明できず、遺伝子はあまりに小さくて『無秩序から秩序へ』の法則では規則性は出てこないと主張した上で、遺伝子は何らかの『非周期的結晶』であるはずだと提唱した。はたして遺伝子は非周期的結晶なのだろうか?」(P230〜231)
共著者たちは、シュレディンガーの主張の正しさを確認します。
「その構造の秩序は結晶と同じく量子レベルで決定されているのだと、シュレディンガーは提唱したのだ。(中略)
シュレディンガーは正しかったのか? まず明らかな点として、DNAのコードは核酸塩基の繰り返し構造によってできており、それぞれの繰り返し単位が四種類の塩基のうちの一つで占められているという意味で、確かに非周期的である。
シュレディンガーが予測したとおり、遺伝子は実際に非周期的結晶なのだ。しかし、非周期的結晶が必ずしも量子レベルで情報をコードしているとは限らない。」(P231〜232)
そこで、共著者たちは、AとTのペア、CとGのペアを作るに際して、重要な役割を果たす陽子の役割に注目します。
「遺伝コードを担っているDNAのペア形成のおおもととなっているのは、相補塩基対を結びつけている化学結合だ。先ほど話したように、水素結合と呼ばれるその結合は、それぞれの鎖の上にある互いに相補的な塩基に含まれる一個ずつの原子が、一個の陽子、要するに水素原子核を共有するで作られる。
それによってペアの塩基どうしは結びつく。塩基Aと塩基Tがペアになるのは、Aの持っている陽子が、Tと水素結合を作るのにちょうどよい場所にあるからだ。AとCがペアになれないのは、陽子が正しい位置になくて結合を作れないからである。
陽子を介したヌクレオチド塩基どうしのこのペアリングこそが、世代ごとに複製されて受け継がれる遺伝コードそのものだ。(中略)
陽子の位置は古典的な法則ではなく量子力学の法則によって決まっているという、あとから考えると至極当然に思える事柄をはじめて指摘したのは、スウェーデン人物理学者のペル=オロヴ・レヴディンである。
生命の存在を可能にしている遺伝コードは、そのため必然的に量子コードということになる。シュレディンガーは正しかった。遺伝子は量子の文字で書かれており、遺伝の忠実性は古典的ではなく量子的な法則によって与えられているのだ。(中略)
シュレディンガーの予測どおり、生命全体の構造と振る舞いからDNA鎖上の陽子の位置にまでつながる秩序——秩序から秩序へ——によって生命は活動しており、その秩序が遺伝の忠実性をもたらしているのだ。」(P231〜232)
遺伝には、突然変異もあります。このことと、量子力学は関係しているのでしょうか? 共著者たちはこう述べます。
「陽子のトンネル効果が突然変異を引き起こしていることはいまだに証明されていない。ほかに突然変異の原因がいくつもあり、また変異を修復するメカニズムも存在しているため、たとえトンネル効果が役割を果たしていたとしても、それを明らかにするのは輪を掛けて難しのだ。」(P 255)
「意識」の発生に
量子力学は関与するのか?
そして、本書はいよいよ、科学界最大の「謎」である「意識」の問題へと突入していきます。本書のクライマックスといってよいでしょう。
「しかし、意識とはいったい何だろうか? もちろんそれは、哲学者や神経生物学者を悩ませてきた問題で、それ以外の人も意識を持ちはじめて以来ずっと疑問に思ってきたはずだ。この章では、あえて厳密に定義するのは避けることにする。意識というもっとも奇妙な生命現象をどのように定義するかにこだわりすぎて、かえってそれを理解しようとする試みが妨げられていることが多いと、私たち著者は考えている。」(P264)
これが、「意識」という「謎」めいた現象に対する、共著者たちの基本的な姿勢です。私も、かつて、拙著『未来のアトム』の中で、この共著者たちと同様の見解を述べたことがあります。「意識」を定義しようとしても、どこかムリがある、発想を逆転させて、あらゆる定義をすり抜けてしまうもの、それこそが「意識」である、というようなことを書いたことがあります。
本書の声に耳を傾けましょう。
「生物学者は生命そのものの完全な定義についてさえ意見が一致していないが、細胞や二重らせん、光合成や酵素、および量子力学によって引き起こされるいくつもの現象など、数多くの生命現象のさまざまな側面を解明してきた。そしてそれによっていまでは、生命とは何かという疑問に関して、さまざまなことが明らかとなっているのだ。(中略)
コンパスから酵素の作用、光合成から遺伝や嗅覚まで、ここまで取り上げてきた現象はすべて、従来の化学や物理学の範囲内で説明できる。量子力学はとくに多くの生物学者にとっては馴染みが薄いが、それでも現代科学の枠組みに完全に収まっている。二重スリット実験や量子もつれで何が起きているかを直感的常識的に理解することはできないかもしれないが、量子力学の土台をなす数学は性格で論理的であり、驚くほど強力だ。
しかし、意識は違う。ここまで説明してきたたぐいの科学のどこにどのように当てはまるか、誰も知らないのだ。『意識』という項を含んだ信頼できる方程式は存在しないし、たとえば触媒やエネルギー輸送と違って、生きていないものに意識が発見されたことはこれまで一度もない。
意識はすべての生命が持っている性質なのだろうか? ほとんどの人は、そんなことはなくて神経系を持っている生物に限られると考えるだろうが、では、意識を持つにはどの程度の神経系が必要なのだろうか?」(P264〜265)
サンゴ礁にいるカクレクマノミなどの魚類、タコなどの軟体動物、コマドリやセキセイインコ、カナリアといった鳥類、イヌやネコなどの哺乳類、そして古くはティラノサウルスなどの恐竜、これらも、すべて「意識」を持っているでしょうか? 持っているとすれば、「意識」とは、それほど古いものなのでしょうか?
「もちろんそれは分からない。単に人間に似ているだけの行動と真の意識とを区別する方法は誰にも分からないのだから、ペットを飼っている人でさえ推測をしているにすぎない。意識がいったい何ものであるかが分からなければ、どんな生物がその性質を持っているかは分かりようがないのだ。
そこで本書では安直な方法として、こうした主張や議論は避け、意識がいつ地球上に現れたのかや、動物界でどの動物が意識を持っているのかといった疑問については、これ以上詮索しないことにする。」(P266)
そこで、共著者たちは、先ずは「意識」の出発点として、こう述べます。
「話の出発点として、古代の洞窟の壁にクマやバイソンや野生のウマのイメージを描いた祖先たちは、間違いなく意識を持っていたと断定しておこう。だとすると、約三〇億年前、原始の泥のなかでのあいだのどこかの時点で、生命体を形作る物質のなかからある奇妙な性質が現れたことになる。
つまり、何らかの物質が意識を持つようになったということだ。この章の目的は、その意識がなぜどのようにして現れたかを考え、意識が出現する上で量子力学が鍵を握っていたという、異論の多い説について検討していくことである。」(P266)
科学が直面する
奇妙な代物「意識」
科学者たちは、とかく「意識」の問題を避けようとします。そして、「意識」の問題を、「脳の機能に過ぎない」などとして、過小評価する傾向がみ見られます。「意識」が科学的に定義できないからでしょうし、「意識」をどうやって扱ってよいのか、科学者として当惑するからでしょう。
その点、本書の共著者たちは、科学者として、「意識」を科学界最大の「謎」の一つとして捉え、正面から「意識」の問題を取り上げています。「意識」に関する疑問を、ストレートに投げかけています。
私は、科学界や科学者たちを支配している唯物論——特に、単純な唯物論には多大な疑問を持っていますし、懐疑の目を向けていますが、本書に見られる共著者たちの正直で率直な
姿勢には好感を持てます。
「宇宙について我々が知っている事柄のなかでもおそらくもっとも奇妙なのは、我々が宇宙について多くの事柄を知っているということだ。それは、頭蓋骨のなかに閉じ込められた宇宙の一部が持っている並々ならぬ性質、すなわち意識のおかげである。意識はきわめて奇妙な代物で、とくにその奇妙な性質がどのように機能しているかはまったく分かっていない。」(P267)
人間の「意識」は、哲学的思考に象徴されるように、抽象的な「観念」や「概念」を作り上げることができます。共著者たちは、そこに目を向けます。
「観念とは何なのだろうか? ここでは、観念はある複雑な情報の塊であって、我々の意識はそれを一つにまとめることで、自分にとって意味のある概念を作るのだとしておこう。」
(P268)
共著者たちは、音楽の天才モーツァルトの有名な言葉を引き合いに出します。モーツァルトは次のように述べています。
「どんなに長い曲でも、頭のなかですべて完成する。そして心がそれを一目で理解する。
−−−−−− 順番に作られていってあとからさまざまな部分が細かく完成していくのではなくて、曲全体が丸ごとできあがるのだ。」
モーツァルトは、曲は一気に全体が出来上がる、といっているのです。部分部分を積み上げる “積み上げ方式” で出来上がるのではない、といっているのです。通常、天才音楽家の創造世界は、凡人には理解できないと考えられがちですが、よく考えてみれば、モーツァルトに限らず、創造というものは、元来、そういうものではないでしょうか?
「意識は『さまざまな部分』からなる複雑な情報を『理解』することができ、その意味を『丸ごと』把握できる。我々の心は意識を持っているおかげで、単なる刺激でなく観念や概念に促されて働くことができるのだ。
しかし、我々の意識のなかで、複雑な神経情報はどのようにして結びつけられて一つの観念になるのだろうか? つまり、脳のそれぞれまったく異なる領域にコードされた情報が、意識のなかでどのようにして一つにまとめられるのか、という問題だ。この結びつけ問題はふつう、視覚などの感覚情報に当てはめて提起される。」(P268〜269)
脳科学では、情報は、脳内の神経細胞の発火現象によって伝達されるとされている。
「この発火プロセスは、我々の思考に量子力学が関係している可能性を理解する上で重要なので、この章でのちほど詳しく説明する。(中略)
『一緒に発火した神経細胞どうしが連結する』というルールが、脳のなかで記憶がコードされるしくみだと考えられる。
ここで重要な点として、人間の脳には一〇〇〇億個ほどの神経細胞があるが、感覚によって発生したこのような膨大なパルスの流れを一つにまとめて、バイソンの意識的な印象を作り出している特定の場所は、そのなかのどこにもない。(中略)
結びつき問題を感覚印象でなく観念に即して表現すれば、意識にまつわる問題の核心が見えてくる。つまり、観念はどのようにして、人間の心、さらには身体を動かすことができるのか、ということだ。(中略))
完全に決定論的な宇宙からは、意識や自由意思などというものは現れない。(中略) 『心身問題』とか『意識の難問』などとさまざまな名前で呼ばれるこの問題は、もちろん人間の存在にまつわるもっとも深遠な謎である。」(P269〜272)
「我、思う。ゆえに、我あり」という有名な一句を残した哲学者デカルト。共著者たちは、このデカルトも引き合いに出します。
「もし神経細胞が論理ゲートのようなものだとしたら、何十億個もの神経細胞からできている脳は、ある種のコンピュータとして考えることができるのかもしれない。少なくともほとんどの認知神経学者はそのように考えており、これを『心の計算理論』と呼んでいる。
(中略)
デカルトが動物は単なる機械だと主張した際に持ち出したメカニズム(第2章)と同じで、滑車とてこを神経と筋肉と論理ゲートに置き換えたにすぎない。
しかし、デカルトは、霊的な存在、すなわち魂が、究極的には人間の行動を引き起こしているのだという余地を残したのだった。」(P278〜279)
「量子コンピュータ」と
「脳」の相似生とは?
本書の共著者たちは、ここで、「二元論」と「一元論」について論究します。
「おそらくほとんどの人は、心や魂や意識は物理的な身体とは別物だとする「二元論」の考え方を、何らかの形で受け入れていると思う。しかし二〇世紀の科学界では二元論は支持を失い、いまではほとんどの神経生物学者は、心と体は同じ一つのものだとする『一元論』の考え方の方を好んでいる。」(P279)
こう述べた上で、共著者たちは、脳をコンピュータになぞらえながら、こう問います。
「なぜ、シリコンでできたコンピュータはゾンビで、肉でできたコンピュータは意識を持っているのだろうか? (中略) 意識はまったく違うたぐいの計算活動なのだろうか?
(中略)本書のテーマにもっとも関係のある、きわめて異論が多いが魅力的なある主張に焦点を絞ることにする。それは、意識は量子力学的現象であるとする説だ。なかでももっとも有名なのは、オックスフォード大学の数学者ロジャー・ペンローズが一九八九年の著書『皇帝の新しい心』のなかで説いた、人間の心は量子コンピュータだという主張である」(P280
ロジャー・ペンローズについては、拙著『未来のアトム』の中でも取り上げました。天才と呼ばれる数理物理学者のペンローズは、「意識」の解明に独自の観点から迫ろうとしており、注目に値する人物です。ペンローズのことは、私の別のブログでも取り上げるつもりです。
ところで、量子コンピュータとは、どんなコンピュータなのでしょうか? 共著者たちの解説に耳を傾けましょう。
「量子コンピュータのしくみを理解するには、はじめに古典的なコンピュータの『ビット』を球形のコンパスにたとえるといい。その針は1(北極)または0(南極)を向くことができ、一八〇度回転させるとこの二つの状態のあいだで切り替わる。
コンピュータのCPUはこのような一ビットのスイッチが何百万個集まってできており、その計算プロセス全体は、膨大な数の球体を一八〇度反転させるための、一連の複雑な規則(アルゴリズム)を適用させることとして考えることができる。
量子コンピュータでビットに相当するのが、『キュビット』と呼ばれるものだ。古典的な球体に似ているが、その動きは一八〇度の反転だけに限らない。空間内で好きな角度で回転させることができるし、また量子力学的な存在なので、コヒーレントな量子重ね合わせ状態として同時にいくつもの方向を指すことができる。
キュビットはこのように自在性が高いため、古典的なビットよりも多くの情報をコードできる。しかし計算能力が真に増大するのは、いくつものキュビットを組み合わせたときである。
古典的なビットの状態は隣のビットに何の影響も与えないが、キュビットは『量子もつれ状態』を取ることができる。(中略) 量子もつれとは、コヒーレント状態からさらに一歩進んで複数の量子的粒子が単一性を失い、一個の粒子に起きたことが瞬時に別の粒子に影響を与えるというものだ。」(P281〜283)
量子コンピュータと脳。その相似性は、どれだけあるのでしょうか?
「量子物理学者は、互いにもつれたキュビットのコヒレーント状態を何とかして維持するために、きわめて高度で慎重に制御された物理系を使い、数個程度の原子でキュビットをコードし、その系を絶対零度近くまで冷やし、装置に徹底的な被覆を施して環境からの影響を完全に遮断しようとしている。このような方法を使っていくつかの画期的な成果が得られている。(中略)
細胞は実際にデコヒーレンスを長時間食い止めることによって、光合成複合体のなかで励起子を運び、酵素のなかで電子や陽子を移動させている。中枢神経系のなかでも同じように
デコヒーレンスが食い止められており、それによって脳が量子計算をおこなっているという可能性は、はたしてあるのだろうか?」(P286〜287)
脳の驚くべき仕組みと
ゲーデルの「不完全性定理」
共著者たちは、ペンローズや、“ 天才中の天才 ” と呼ばれた数学者クルト・ゲーデルについて論及していきます。
「ペンローズによる、脳は量子コンピュータであるという主張は、最初の頃はかなり驚くべき根拠に基づいていた。その根拠とは、オーストリア人の数学者のクルト・ゲーデルが示した、少なくとも数学者のあいだでは有名な一連の不完全性定理である。
一九三〇年代に数学者たちは、真である命題は真であると証明でき、偽である命題は偽であると証明できる強力な公理系を見つけ、算術全体を内部的に一貫した自己矛盾のない体系にするという計画に自信を持って取り組んでいた。
ところがこの不完全性定理の登場によって、彼らは大きな衝撃を受けた。数学者や哲学者にしか関係のない事柄のように聞こえるかもしれないが、いまでも論理学の分野で重要なテーマになっている。ゲーデルの不完全性定理によれば、このような計画は必ず失敗する運命にあるのだ。」(P288)
私は、ゲーデルのこの不完全性定理については、拙著『未来のアトム』(アスコム)の中で、かなり詳しく取り上げました。哲学者のカントは、その主著『純粋理性批判』で、人間の理性の限界について鋭く深く考察し、人間の理性には、それ以上踏め込み得ない限界があると結論づけましたが、ゲーデルもまた、その不完全性定理で、人間の理性の限界を暴(あば)いたともいえましょう。
ゲーデルの不完全性定理は、形式論理の不完全性を暴いたのです。これは、簡単にいえば、「数論の無矛盾の公理系は、必ず決定不能な命題を含む」という定理です。つまり、論理的記述で証明しうることには厳然たる限界がある、ということです。言い換えれば、数学が矛盾を含まないことを数学的に確認することは不可能であり、世の中には完全な数学理論は存在しない、ということです。
ゲーデルの不完全性定理が発表されるまでは、数学の基礎となる数論は、厳密な明証性、論理的整合性を持つと考えられてきたわけですから、当時、いかにゲーデルの不完全性定理が数学界 に衝撃を与えたかがわかります。
ゲーデルは、数論には決定不可能な命題があることを明らかにしてしまったのです。数論は完全ではなく、不完全であることを証明してしまったのです。
形式論理は、アリストテレス以来のいわゆる三段論法に象徴的に見て取れます。「人は死ぬ」「ソクラテスは人である」「ゆえにソクラテスは死ぬ」というのが、典型的な三段論法です。これは、形式的、機械的に行われる推論であり、このレベルで推論を行う限り、論理的破綻はきたしません。
しかし、ゲーデルは形式論理には限界があることを明らかにしました。自己言及的な形で、論理が論理自身に向かうとき、論理的破綻をきたしてしまうのです。
たとえば、それは「嘘つきのパラドックス」に典型的に見て取れます。「嘘つきのパラドックス」とは、次のようなことです。
「私は嘘つきである」という発言を考えてみましょう。この発言が真であれば、文字通り、「私は嘘つきである」ということになります。嘘つきであれば、「私は嘘つきではない」というべきです。ところが、発言は「私は嘘つきである」です。嘘つきが「私は嘘つきである」と本当のことをいっていることになってしまい、矛盾します。
逆に、この発言が偽だとすると、どうなるでしょうか? 発言が偽であれば、私は嘘つきではないということになります。ところが、発言は「私は嘘つきである」です。嘘つきではないのに、「私は嘘つきである」という嘘のことをいっていることになってしまい、矛盾します。いずれの場合も矛盾してしまうのです。
「証明可能」とは、「計算可能」ということと、ほとんど同義です。そして、「証明不可能」とは、「計算不可能」ということと、ほとんど同義です。
現在、コンピュータがやっていることは「計算可能」なことだけです。しかし、人間は「計算不可能」なことも、やすやすとやってのけています。「直観」によって。だからこそ、ゲーデル自身も、こう述べているのです。
「数学を形式化しようとすると、それがいかなる形式化であっても、日常言語では理解し表現できるが、形式体系内では表現できない命題が生じる。したがって、ブロウエルが言うように、数学は汲み尽くせないのであって、常に新たに『直観の源泉』から汲み上げる必要がある。つまり、全数学のための普遍的な形式化は不可能であり、全数学のための決定手続きもない」(拙著『未来のアトム』より)
「意識」はペンローズが考察した
「量子コンピュータ」なのか?
鋭敏な読者の方々は、すでに何か予感めいたものをお感じでしょう。ゲーデルの不完全性定理と、人間の「意識」や、コンピュータの「計算可能性」「計算不可能性」との関係。それらは、もちろん、根底で深いつながりがあります。そのことに留意した上で、本書の共著者たちの言葉に耳を傾けましょう。
「ペンローズが著書『皇帝の新しい心』のなかで、ゲーデルの不完全性定理を議論の出発点に据え、はじめに古典的コンピュータは形式論理体系(コンピュータアルゴリズム)を使って命題を表現していると指摘したことだ。そしてゲーデルの定理をもとに、コンピュータは真ではあるが証明できない命題を作ることができるはずだと論じた。
しかしペンローズいわく、人間(あるいは少なくとも数学者)なら、コンピュータが作った証明不可能だが真であるそのような命題が、真であることを証明できる。したがって、人間の心は単なる古典的コンピュータではなく、非計算的なプロセスを実行できるのだという。そしてペンローズは、この非計算的なプロセスを実行するには、量子力学でしか得られない何か特別なものが必要だと考えた。つまり、意識には量子コンピュータが必要だというのだ。
もちろんとてつもなく大胆な主張だ。のちほど再び取り上げるが、この主張は、難解な数学的命題が証明可能かどうかということに基づいている。しかしペンローズはその後の著書『心の影』のなかでさらに、脳が量子の世界で計算するために使っているかもしれない物理的メカニズムまで提唱した。アリゾナ大学の麻酔学者で心理学者のスチュアート・ハメロフと組み、神経細胞のなかにある『微小管』という構造体こそが量子脳のキュビットであると主張したのだ。
微小管とチューブリンと呼ばれるたんぱく質が長く連なったものだ。ハメロフとペンローズの説によれば、糸に通したビーズに相当するこのチューブリンたんぱく質は、伸びた状態と縮んだ状態という少なくとも二種類の形を取ることができる。そして重要な点として、同時にこの両方の形の重ね合わせ状態で存在する量子的物体として振る舞い、キュビットに近いものを作ることができるという。
それだけでなく、ある神経細胞のなかのチューブリンたんぱく質は、ほかの数多くの神経細胞のなかのチューブリンたんぱく質と量子もつれ状態にあると、二人は仮定した。量子もつれとは『不気味な遠隔作用』であって、互いに遠く離れた物体どうしを結びつけるものだった。
人間の脳のなかにある何千億個もの神経細胞がすべて不気味な形で結びついているとしたら、それぞれの神経細胞にコードされている情報はすべて結び合わされていることになり、結びつけ問題は解決するかもしれない。そして意識は、実現困難だがとてつもなく強力な量子コンピュータによって生じているのかもしれない。
このペンローズ=ハメロフの意識の理論はそれだけに留まらず、おそらくさらに異論の多い説として、意識には重力が関係しているとまで提唱している。しかしこれは信頼できる理論なのだろうか?(P289〜290)
共著者たちが述べているように、脳の神経細胞のなかのチューブリンたんぱく質が、量子的振る舞いに関わっており、意識の発生に関与しているというペンローズ=ハメロフ説は、科学者たちの間では、あまり支持されていないようです。共著者たちは、こう続けます。
「私たち本書の著者を含め、ほぼすべての神経生物学者や量子物理学者はとうてい納得していない。先ほど説明した、脳から神経によって情報が伝わるしくみに基づいて、この理論に対するきわめて明白な反論を一つ示すことができる。(中略)
知られている限り、微小管は神経情報伝達にいかなる直接的な役割も果たしていないため、そもそも触れる必要がなかったのだ。微小管は神経細胞の構造を支え、神経伝達物質を双方向に輸送しているが、脳の計算を担っているネットワーク的な情報処理には関与していないと考えられている。したがって、微小管が我々の思考の材料であるとは考えにくいのだ。しかし、おそらくさらに重要な反論として、微小管はあまりに大きく複雑なため、コヒーレントなキュビットの候補としてはきわめて可能性が低い。(中略)
しかしペンローズ=ハメロフ理論では、数百万個の粒子からなるたんぱく質分子全体が量子重ね合わせ状態にあり、それがさらに、同じ微小管のなかだけでなく、脳全体にある何十億個もの神経細胞に含まれる微小管のなかの、同じく何百万個もの粒子からなる分子と量子もつれ状態にあると提唱している。もっともらしい説とは、とうてい思えない。」(P290〜291)
「しかし、ペンローズ=ハメロフの量子意識理論が抱える、おそらくさらに根本的な問題点は、ペンローズが最初に脳は量子コンピュータだと主張した点である。ペンローズはこの主張の前提として、人間はゲーデル的な命題を証明できるが、コンピュータはできないという仮定を置いたのだった。
しかし、脳のなかで量子計算がおこなわれていると主張するためには、量子コンピュータは古典的コンピュータよりもゲーデル的な命題を証明する能力が高くなければならないが、そのような証拠はまったくないし、ほとんどの研究者はそうではないと考えている。
さらに言うと、人間の脳が実際にゲーデル的な命題の証明において古典的コンピュータより能力が高いかどうかは、まったく定かではない。コンピュータが作った証明不可能なゲーデル的命題が真であることを、人間は証明できるかもしれないが、それと同じく、人間の心が作った証明不可能なゲーデル的命題が真であることを、コンピュータは証明できるかもしれない。ゲーデルの定理は、一つの論理体系のなかの命題をその論理体系のなかで証明できるかどうかに制限を課しているだけであって、ある論理体系で作ったゲーデル的命題を別の論理体系で証明できるかどうかに関しては、何ら制約を課してはいないのだ。」(P292)
このように、共著者たちは、ペンローズ=ハメロフの量子意識理論に疑義を呈しながらも、「最近の研究によると、量子力学は確かに心のしくみに重要な役割を果たしているらしのだ。」(P292)と述べ、量子力学と心の関係を追究する意義を強調します。
例えば、こう問いかけます。「光合成では量子力学によってエネルギー輸送が促進される。だとしたら、脳のなかのイオン輸送も量子力学によって促進されているのではないか?」と。
意識の「結びつけ問題」と
脳の電磁場の関係性
共著者たちは、さらに問いかけていきます。
「個々の思考プロセスはどのように組み合わさって、意識、すなわち互いに密接に結びついた思考の集まりになるのだろうか?」(P295)
そして、論究を進めていきます。
「イオンチャンネルとそのなかのイオンも、ペンローズ=ハメロフの微小管の考え方と同じ問題を抱えることになる。イオンチャンネルが同じ細胞内の隣のイオンチャンネルと量子もつれ状態にあることは考えられる。
しかし、結びつけの問題を解決するのに必要な、互いに異なる神経細胞内のイオンチャンネルどうしがもつれ状態にあるというのは、脳という温かく湿っていてきわめて活動的な、デコヒーレンスを引き起こすような環境では、完全にありえない話なのだ。
量子もつれではイオンチャンネルにおける量子レベルの情報を互いに結びつけることができないとしたら、ほかにその役割を果たしてくれるものはあるのだろうか?(中略)
しかし脳全体には、神経細胞の電気活動によって発生する独自の電磁場が満ちている。この電磁場は、脳波測定(EEG)や脳磁図測定(MEG)などの脳スキャン技術のよって日常的に観測されており、そのようなスキャン画像を一目見ただけで、この電磁場がいかに複雑で情報に富んでいるにかがよく分かる。
ほとんどの神経科学者は、この電磁場は脳活動の副産物であって脳活動そのものに影響をおよぼすことはなく、いわば列車の汽笛のようなものだと決めつけているため、この電磁場が脳の計算において何か役割を果たしているという可能性は無視されてきた。
しかし、著者の一人ジョンジョーを含め何人かの科学者は最近、脳のなかの一個一個の物質粒子から、脳全体の電磁場へと視点の先を変えることで、結びつけ問題を解決して意識の存在する場所を明らかにできるかもしれないという考え方に夢中になっている。
そのからくりを理解するには、「場」というのが何なのかをもう少し説明しなければならないだろう。」(P295 〜296)
ここで、物理学でいう「場」の概念を理解する必要があります。
「この専門用語は日常的な用法から来ており、トウモロコシ畑(フィールド)やフットボール場(フィールド)のように空間的に広がっているものを意味する。重力場は質量を持つすべての物体を動かし、電場や磁場は、神経細胞のイオンチャンネルのなかを通るイオンのような、電荷を持った粒子または磁気を帯びた粒子を動かす。
一九世紀にジェイムズ・クラーク・マクスウェルが、電気と磁気は電磁気という同じ現象の示す二つの側面であることを発見し、いまではこの二つを合わせて電磁場と呼んでいる。」(P296)
共著者たちによれば、「その電磁場は神経細胞の発火によって発生するため、脳の神経発火のパターンと同じ情報をコードしている。しかし、神経情報はパルスを発する神経細胞のなかに閉じ込められたままだが、そのパルスによって生じる電気活動は、脳の電磁場に含まれるすべての情報を一つにまとめ上げている。これが結びつけ問題の答なのかもしれない。」
そして、共著者たちはこう述べます。
「この意識の電磁場理論がはじめて提唱された二一世紀初頭には、脳の電磁場が神経細胞の発火パターンに影響を与えて思考や行動を促していることを示す直接的な証拠はなかった。しかし、最近いくつかの研究室でおこなわれた実験によって、脳自体が発生する電磁場に強さやパターンが似ている電磁場を外部からかけると、確かに神経発火が影響を受けることが実証されている。
そのような電磁場は神経発火を統制し、多数の神経細胞を同期させてすべていっせいに発火させるらしい。このような知見から見て、神経発火によって発生する脳自体の電磁場も神経発火に影響を与えていると考えることができ、多くの理論家は、そのいわばフィードバックグループが意識の重要な構成要素であると論じている。
脳の電磁場によって神経発火が同期するという現象は、神経活動の特徴のなかでも意識と関係があることが知られているごく少数の例の一つである。そのため、意識の謎について考える上でもきわめて重要だ。(中略)
電磁場は、脳の互いに離れた場所にあるコヒーレントなイオンチャンネルをすべて一つに結ぶつけることで、無意識から意識的思考への移り変わりに何らかの役割を果たしているのかもしれない。」(P296~297)
「強調しておくべきだが、意識を説明するために脳の電磁場や量子コヒーレントなイオンチャンネルといった概念を持ちだしてきたところで、けっしてテレパシーのようないわゆる『超常現象』の存在が裏付けられることにはならない。電磁場もイオンチャンネルも、一つの脳のなかでおこなわれる神経プロセスにしか影響を与えることができず、異なる脳のあいだで意思疎通することはできないのだ!
そもそも意識を説明するのに実際に量子力学が必要であるという証拠はまったくない。しかし、生命に欠かせないあれほど多くの現象に関係していることがわかっている量子力学の奇妙な性質が、生命のもっとも謎めいた産物である意識にはまったく関係していないなどということが、はたして考えられるだろうか? その判断は読者にお任せしよう。
量子コヒーレントなイオンチャンネルと電磁場に基づいて意識を説明するという説を含め、ここまで示してきた事柄はもちろん推測にすぎないが、少なくとも脳のなかで量子の世界と古典的な世界をつなぐものとしては理にかなっている。」(P298)
生命の極めて重要な特徴
「自己複製」
共著者たちが、科学者としての原点に立って、こう設問を投げかけたことを思い起こしましょう。
「科学最大の謎を三つ挙げるとしたらふつう、宇宙の起源、生命の起源、意識の起源となる。」(P307)
私は、まず、この率直で真摯(しんし)な発言を大いに評価します。というのも、これまでも述べましたように、拙著『未来のアトム』に対する凡庸な物理学者の誤読を背景とした、あまりにも凡庸な論評に辟易(へきえき)とさせられたからです。呆(あき)れました。
凡庸な物理学者は、「意識は脳の機能である」との見方、公式見解から一歩も出ず、その公式見解にいわば安住したまま、「意識」が「科学最大の謎の一つ」などと、思いもしないからです。彼には「意識」の「謎」が見えていないのです。「意識」が「謎」だなどと、そもそも思いもしないのです。
しかし、現代科学の最前線である量子力学は、この「謎」がいかに大きな「謎」であるかを示しています。物質と意識の関係、つまり、粒子を観測すると粒子の状態が変化してしまうという、いわゆる「観測問題」がそれです。観測というのは、言葉を換えれば、意識がそこに加わるということです。観測という行為が加わると、粒子の「位置」と「速度」を同時には確認できなくるという、ハイゼンベルクの有名な「不確定性原理」は、まさにこの「観測問題」を物語っています。
それを踏まえるなら、「意識」の問題は、現代科学にとっても最重要課題であることは、自明の理なのです、にもかかわらず、そのことを簡単にパスしてしまう物理学者がいる、しかも潜在的に大量にいる、このことは、ある意味、恐ろしいことです。「意識」の問題は、心理学や文学などの「人文系の問題」であり、「科学の問題」ではないと思っているのでしょうか。
こうした状況に照らしてみれば、共著者たちの発言は、大いに評価すべき発言であり、「勇気ある発言」ともいえるものなのです。私が本書を取り上げたのは、これがためです。こうした問題意識の下で書かれた科学書である、というこの一事だけでも、私は本書を読む価値が十分にあると思っています。
共著者たちは、さらにこう説明します。
「量子力学は一つ目の謎(注:宇宙の起源)と密接に関係しているし、また前に説明したように三番目の謎(注:意識の起源)ともつながりがあるかもしれない。そしてこれから話すように、二つ目の謎(注:生命の起源)を解くのにも役立つかもしれない。」(P307)
「何百年も前から科学者や哲学者や神学者は生命の起源について深く考察し、神による創造説から、パンスペルミア説、すなわち宇宙から地球へ種(たね)が撒かれたという説まで、ありとあらゆる考え出してきた。」(P307)
こう述べた上で、共著者たちは、ダーウィンの説や、ホールデン、オパーリンなどの「原初の複製体」という考えに基づく生命誕生説、アミノ酸を含む「原始のスープ」という考えに基づくミラー=ユーリーの実験室で生命を作り出す実験などを解説してゆきます。
生命の極めて重要な事柄に、「自己複製」という事柄があります。現代の分子生物学は、RNA やDNAなどの解析に基づく、遺伝情報の解明に向かっています。本書はこう述べます。
「DNAや細胞の登場以前に、自己複製するRNA分子の世界が存在していたという考え方は、いまでは生命の起源の研究においてほぼ定説となっている。リボザイムは、自己複製する分子がおこなうべき重要な反応をすべて進めることができると分かっている。」
(P315)
本書の説明に従えば、「リボザイム」とは、遺伝情報をコードするだけでなく、反応を触媒する酵素としても作用するRNA分子のことです。この「リボザイム」は、どのようにして自己複製を行うのでしょうか?
「現在のところ、このような複雑な作業をおこなうことのできるリボザイムは、たとえ実験室のなかでも発見されていないし、合成にも成功していない。
さらに根本的な問題として、そもそも原始のスープのなかでどのようにしてRNA分子ができたのだろうか? RNA分子は三つの部品からできている。遺伝情報をコードするRNA塩基(DNAの遺伝情報をコードしているDNA塩基に対応する)、リン酸基、そしてリボースと呼ばれる糖だ。(中略)
リボースだけを生成する非生物学的なメカニズムは知られていないのだ。また、たとえリボースが作られたとしても、三つの部品をすべて正しくつなぎ合わせること自体、とてつもなく厄介な作業である。」(P316)
生命は「偶然」に誕生したのか?
ありえない確率だが!?
ここで問われているのは、要するに、生命誕生の謎です。つまり、この「リボザイム」——RNA分子は、自然界においてどのように生成されたのでしょうか? そのことが問われているのです。
科学的にいえば、それは「偶然」ということになります。生命は「偶然」誕生した。こう説明せざるをえません。しかし、著者たちは、このことを自問自答していきます。原始のスープのなかで、純粋にランダムなプロセスでRNAが生成される確率を著者たちは計算します。それは、なんと6の140乗の1(約10の109乗の1)だというのです。
「しかし10の109乗の1という数は、観測可能な宇宙全体に存在する素粒子の個数(約10の80乗)よりもはるかに大きい。地球の形成から、イアスの岩石によって推定される生命誕生の時代までの数億年のあいだに、意味のある量のRNAが作り出されるためには、地球上に存在する分子ではとうてい足りないし、時間も足りないのだ。(中略)
明らかに、偶然任せにすることはできないのだ。」(P317〜318)
とはいえ、あくまで唯物論という立場に立つ著者たちは、こう述べます。
「何度も試みられていながら、自己複製するRNA(あるいはDNAやたんぱく質)が合成されたり、自然界で発見されたりしたことはこれまで一度もない。自己複製の作業がいかに困難かを考えれば、驚くようなことではない。
今日の世界でこの離れ業をやってのけるには、細胞が丸ごと必要だ。数十億年前にもっとずっと単純な系がそれをこなしていたということが、はたしてありえるのだろうか? もちろんこなしていたはずだ。もしそうでなかったら、我々が今日この問題をこうやって考えているはずはないのだから。しかし、細胞の誕生以前にどうやってこの離れ業が実現されていたのかは、まったく分かっていないのだ。」(P318〜319)
まさに自問自答です。そこで、共著者たちが辿(たど)り着いたのが、量子力学の世界だというわけです。
「最初の自己複製体探しが古典的な世界ではなく量子の世界でおこなわれたのだとしたら、少なくともこのように考えることで自己複製探索の問題を解決できるかもしれない。
このシナリオがうまくいくには、原始の生体分子、つまり原始自己複製体は、粒子が異なる位置のあいだでトンネルすることで何通りもの構造を立っ作できるようなものでなければならない。どのような種類の分子がそのような芸当をできるのかは、はたして分かっているのだろうか? ある程度は分かっている。」(P325)
共著者たちは、かくして、「遺伝コードは元々は量子コードだったのだろうと提唱している」(P326)と述べます。
「もちろん、三〇億年前の生命の誕生に量子力学が関係していたというシナリオは、いまだに推測の域を出ていない。しかし先ほど話したように、生命の起源に対する古典的な説明でさえ、さまざまな問題を抱えている。一から生命を作り出すのは容易ではないのだ!
量子力学によってより効率的な探索戦略が手に入ったことで、自己複製を作り出すという課題は少しだけ簡単になったのかもしれない。」(P326)
量子生物学は意識の謎に迫れるか?
深淵かつ永遠なるテーマ
こうして共著者たちは、本著のテーマである「量子生物学」へと立ち戻ってきます。
「量子力学の分野を説明するときには、『不気味な』という形容詞がもっとも頻繁に使われる。確かに量子力学は不気味だ。乗り越えられない障壁を物体がすり抜けたり、物体が同時に二ヶ所に存在したり、『不気味なつながり』を持ったりするような理論を、平凡だと形容することはできない。
しかしその数学的枠組みは完全に論理的で首尾一貫しており、素粒子や力のレベルでこの世界がどのような姿であるかを正確に説明している。そのため量子力学は物理的現実の土台をなしている。
飛び飛びのエネルギーレベル、波動と粒子の二重性、コヒーレンス、トンネル効果は、選り抜きの物理学研究室で精を出す科学者にしか関係のない単なる変わった概念ではない。アップルパイと同じくふつうの現実で、アップルパイのなかで作用している。
量子力学はふつうだ。不気味なのは、量子力学が記述しているこの世界のほうなのだ。」
(P329)
「マクロな世界が量子の世界に大きく影響を受けるという性質は、生命特有のものである。そのおかげで生命は、トンネル効果やコヒーレンスやもつれといった量子レベルの効果を利用することで、独特の存在となっているのだ。」(P347)
本書は「量子生物学」という観点から、生命の秘密、生命誕生の秘密に迫ろうとする。そして、何度もこう反芻(はんすう)します。
「生命の正体について何か新たな知見は得られるのだろうか? 実はここからさらに推測できる事柄が一つある。それは確かに推測でしかないが、ここまで歩んできた我々はそう推測せずにはいられない。(中略)
古代人は、死は肉体から魂が離れることで起きると考えていた。デカルトの機械論的な哲学によって、少なくとも植物や動物に関しては生気論は一掃され、魂という概念は放棄されたが、生きているものと死んでいるものとの違いはいまだに謎だった。では、生命に対する新たな理解によって、魂をいわば量子の生気に置き換えることはできるのだろうか? (中略)
いまから提唱する説によって、神秘的な推測を少なくとも科学理論の一片に置き換えることができればと考えているのだ。」(P350〜351)
こうして、共著者たちは「量子的原始細胞」を作り出すという方向を打ち出します。
「生きていない材料だけから、単純な生きた細胞を作り出すことを考えてみよう。たとえば、実験室で維持される原始の海の中で餌を探すといった、単純な作業をおこなうことのできる細胞だ。
我々の狙いは、そのような仕掛けを二種類作り出すことだ。一つは量子力学の不気味な性質を利用するもので、それを『量子的原始細胞』と呼ぶことにする。もう一つは量子力学を利用しない『古典的原始細胞』だ。(中略)
もしこのような研究計画が本当に進められれば、ついに新たな生命を作り出せるかもしれない。(中略)
新たな生命を一から作る能力によってようやく生物学は、『作ることができないものは理解したことにならない』というファインマンの有名な格言に応えられるようになる。」(P362〜366)
コマドリやカクレミノ、南極の氷の下で生き延びる細菌。ジュラ紀の森を闊歩していた恐竜、オオカバマダラやショウジョウバエ、あるいは植物や微生物の持つ驚くべき性質——それらが、いかに量子の世界に根を張っているかに言及しながら、本書の最後はアイザック・ニュートンのあの有名な言葉で締め括(くく)られています。それは。次の言葉です。
「世間が私をどう見ているかは分からないが、私自身は、少年のように海岸で遊び、ふつうよりすべすべした小石やきれいな貝殻を時折見つけては喜んでいるにすぎないように思える。その一方で、目の前には完全に未知なる真理の大海原が広がっている。」(P370〜371)
ニュートンの言葉は、まさに胸を打ちます。これが、古典力学を打ち立てた偉大な科学者の述懐かと思えば、よけい胸に迫るものがあります。そこに見られるのは、『パンセ』の著者パスカル同様の天才の洞察というものでしょう。
私は、本書について、かなり詳細に解説してきました。それは、本書が「生命」や「意識」を「科学最大の謎」と明快に述べ、真摯にこの謎の解明に取り組もうとしているからです。その姿勢に共感したからにほかなりません。
本書は、あくまで、「唯物論」の立場から、「量子力学」「量子生物学」の知見に基づき、この「謎」の解明に向かおうとします。現行の科学の「常識」が「唯物論」であることを踏まえれば、それは、ある意味、当然であり、必然でしょう。
私の立場は、他の私のブログ記事でも再三述べてきましたように、「唯物論」に対しては懐疑的です。「魂」を単なる脳の副産物であるとみなす、単純極まりない現代の科学者の考え方には、もとより、くみしません。
本書が試みているように、「量子生物学」が、量子力学を使って、「意識」や「魂」の「謎」を、科学的に読み解くことに成功するのかどうか? それも、やはり、わかりません。はたして、「魂」なるものは、科学がすでに駆逐したと信じている生気論、その生気論に基づくだけの淡い幻想に過ぎないのでしょうか? 古臭い、単なる幻想の産物なのでしょうか? しかし、これは、あまりにも深い——いや、深過ぎる、深淵かつ永遠なるテーマといえるものなのです。
私は、この深淵かつ永遠のテーマを前に、本書の共著者たちが最後に引用したニュートンの有名な言葉を振り返りたいと思います。さて、ニュートンの言葉は何を告げているのでしょうか?
Comments