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「埴谷VS吉本論争」について

  • 執筆者の写真: Nobukazu Tajika
    Nobukazu Tajika
  • 2024年6月21日
  • 読了時間: 68分

更新日:9月7日



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◼︎右:埴谷雄高氏 左:吉本隆明氏

『意識 革命 宇宙

埴谷雄高・吉本隆明対談』より 

河出書房新社/

写真:編集部撮影(明記なし)

1975年初版発行



 戦後を代表する「両巨頭」の論争


 埴谷雄高さんと吉本隆明さんのことについて、私はお二人にお会いした時のことも含め、これまでブログ記事を書いてきました。

 埴谷雄高さんは、共産党入党の経歴の持ち主で、60年安保世代にとっては「神様のような存在」といわれた人物。一方、吉本隆明さんは共産党などの左翼勢力とは一線を画す意図で、「独立左翼」を自称し、全学連のシンパ、理論的支柱の一人と目された人物です。

 世間的にいえば、左翼側陣営にいると見られていたお二方です。まさに、戦後の思想界、文学界を代表する論客であり、「両巨頭」でした。年齢的にいえば、埴谷雄高さんのほうが歳上です。その意味では、埴谷雄高さんのほうが吉本隆明さんに比べ、先輩ということになりますが、お二人とも、相手を理解し、尊敬し合う間柄でした。

 お二人は、もちろん、お互いに面識、交友がおありになり、対談本なども出しておられるほどです。埴谷雄高さんの小説『死霊』の第五章が完成した時には、それを記念して、吉本隆明さんが、北海道大学、東北大学、京都大学などで講演されました。当時、私は東北大学の学生でしたので、この時の吉本隆明さんの講演を、東北大学の川内校舎というところで、拝聴させていただきました。昭和51年(1976年)のことです。

 学生時代、私はお二人の熱心な読者でした。小林秀雄氏を尊敬する一方、埴谷雄高さんや吉本隆明さんのことも尊敬していました。このお三方は「本物」の思想家であり、「本物」の文学者だと思っていました。右派だの、左派だの、そんな党派性は、ある意味、どうでもよかったのです。このお三方が書かれたものは、間違いなく、私の心に響いたのです。

 そうしたお三方のうちのお二人。しかも、世間的にいえば、同じ左側陣営にいると見られていた、埴谷雄高さんと吉本隆明さんのお二人が論争されたのです。ありていにいえば、「喧嘩(けんか)」されてしまったのです。

 お二方の熱心な読者だった私は、これには驚きました。どういうことなのか? 私は真相を知りたいと思い、論争が起きた当時、お二人の主張に耳を傾けました。かつて、実存主義が流行っていた時、フランスでは、「サルトルVSカミュ論争」という有名な論争が起きたことがあります。同じ陣営にいると見られていた二人が論争し、それがもとで袂(たもと)をわかったのです。

 その「サルトルVSカミュ論争」のことも、私は知っていました。ですから、いわゆる知識人といわれる人たち、なんずく「論客」と目される人たちの間では、はたから見ると、一見、些細(ささい)なこと、些細な違いのように見えても、ご本人同士にとっては、決定的な違いとなってしまう、ということはわかっていたつもりでした。

 ですが、日本国内で、同じ陣営にいると見られていた埴谷雄高さん、吉本隆明さんのお二人が「論争」されるのを目の前で見て、驚きました。当時、驚きと共に、当惑した気持ちになったことを覚えています。また、どこか、悲しい気持ちもしました。


 論争の起こりは

吉本隆明さんの「反核」異論


 さて、この「埴谷VS吉本論争」とは、結局、何だったのでしょうか? 事の起こりは、吉本隆明さんが主張された「反核」異論にありました。この吉本隆明さんの主張は、『「反核」異論』(深夜叢書社 1982年初版)という本にもなっています。

 この本の中で、吉本隆明さんは、発起人が文学者であるところの「署名についてのお願い」「核戦争の危機を訴える文学者の声明」に異を唱えておられます。いわゆる、「文学者の反核声明」を痛烈に批判されているわけです。

「文学者の反核声明」は、中野孝次、小田切秀雄、西田勝、小田実といった人たちによって、1981年に呼びかけられた声明です。

 中野孝次氏は『清貧の思想』などの著者として知られる文学者。小田切秀雄氏は「近代文学」創刊時の発起人の一人で、近代文学の研究者であり文芸評論家。西田勝氏は平和運動家としても知られる文学者。小田実氏は『何でも見てやろう』の体験記で一躍有名になった作家、政治運動家であり、「ベトナムに平和を」と呼びかける「ベ平連」の活動家としても知られています。

 先の文学者たちの「 署名についてのお願い」には、こうした文言が書かれています。

「さて今春、アメリカでレーガン政権が発足して以来、軍備増強論がにわかに高まり、限定核戦略が唱えられ、中性子爆弾の製造が決定されて、核戦争の脅威が人類の生存にとっていっそう切実に感じられるようになってきました。

 ご承知の通りヨーロッパでは、一九八三年末にアメリカの新しい戦術核兵器が配備されれば、核戦争への歯止めが失われるという危機感から、歴史に例を見ないほどの幅広い反核、平和の運動が拡がっております。」(「文藝」 3月号)

 吉本隆明さんは著書『「反核」異論』で、激しい口調で、こう書いておられます。

「特定の文学者(!?)に反核署名の『お願い』と『声明』が配送され、それに三百人もの文学者(!?)が署名した事実を知ったのは、中野孝次の『「文学者の声明」について』(「文藝」 3月号)という文章を読んだときだ。」

「中野孝次が『文藝』の文章で挙げている発起人の名前を見ていて、直ぐに気づいたことがある。三十六人の発起人中、小田切秀雄らの雑誌『文学的立場』が、かつてわたしに使用した用語をそのまま使っていえば、〈なんだ、小田切秀雄とそのお茶坊主たち(これは小田切の使用語である)が、中野孝次と組んでやった陰惨な猿芝居か。〉そういう感想をもった。

 ほぼわたしはこのとき文学者の反核運動の理念的性格を把握することができた。その理念の行方も、ほぼ見通せるとおもった。こういう私的感想も記しておかないと不正直になるから、書きとめておく。」

 吉本隆明さんは、文学者たちの「 署名についてのお願い」「核戦争の危機を訴える文学者の声明」——「文学者の反核声明」に異を唱え、そこには「まやかし」「ウソ」が潜んでいるとして、激しく、これを糾弾(きゅうだん)されたわけです。

 しかし、吉本隆明さんの糾弾の文章によれば、埴谷雄高さんもまた、「 署名についてのお願い」に呼応して、発起人の一人として署名されたということです。吉本隆明さんからすれば、尊敬する埴谷雄高さんが、なぜこんな愚行を犯したのか、ということになります。これが、いわゆる「埴谷VS吉本論争」勃発(ぼっぱつ)のきっかけです。


 ソ連の核脅威に触れない

「署名のお願い」と「声明」


 吉本隆明さんは、ご自身の著書『「反核」異論』の中で、こう主張されています。

「わたしの感受性が正常ならば、アメリカが悪いというニュアンスにうけとることができる。そして事実、ヨーロッパの昨年来の反核平和運動は、ソ連は平和勢力だが、アメリカは軍拡狂奔勢力だ、というソフト・スターリン主義の同伴者から起った運動のようにおもえる。」

「 署名についてのお願い」「核戦争の危機を訴える文学者の声明」には、確かに、吉本隆明さんが主張されているように、「ソ連」という国の名前は出てきません。それで、吉本隆明さんは、ソ連などの共産主義国家の核の脅威に触れていない「 署名についてのお願い」「核戦争の危機を訴える文学者の声明」に 、「まやかし」「ウソ」が潜む “ 容共 ” の匂いを感じ取り、批判されたわけです。

 それは、戦後、「独立左翼」を自称してきた思想家・吉本隆明さんの、ロシア・マルクス主義に対する批判の延長線上にあるものです。

 吉本隆明さんは、『「反核」異論』の中で、さらに、こう続けて述べておられます。

「わたしの批判的立場は、きわめて単純だ。中野孝次の『「文学者の声明」について』に記された『署名についてのお願い』の趣旨に反対で、『核戦争の危機を訴える文学者の声明』の内容に反対だから、こういうものに署名しようにも署名しようがないというものだ。

 大江健三郎は、わたしを『反核、平和運動に水をさす者ら』に加えているが、とんでもない。

 本音をいえば、『水をさす』ほど『反核、平和運動』など重要だとかんがえていない。わたしが政治思想的に、重要とかんがえ追究してきたことは、まったく別だ。ひと口に社会主義のあるべきモデル化といってもいい。またわが国も含めた世界の高度資本主義社会を本質的に現前化することだといってもよい。そのための歴史的な条件の批判、否認、検討、自己検討。」

「大江はじぶんの評論の仕事は『世界終末の核戦争への想像力を育てよ』というのを柱のひとつにしてきたという。そして恐れ入ったことに『世界の終末なんて事態はやってこないし、やってくるとしても自分らの死後のことだろうという』のは、タカをくくった根拠のないオプティミズムということになる。

 そしてこういうオプティミズムが大きな勢いとしてある理由は『私の永く考えてきたところの結論は、——それは人類がまだこの世界の滅亡を経験したことがないからだ』(『講演草稿として書くあとがき』)。いったい正気か。

 わたしはここまで大江の論理をたどって危うく、ふき出すところだった。かつて『世界の滅亡を経験したことが』あったら、オプティミズムもペシミズムもへちまもないじゃないか。

 だがまてよ、とわたしはすこし真剣になって思い返す。大江のこの核終末論は、被虐的(マゾヒック)な論理が病理の域まで入り込んだ極致ではないかとかんがえたのである。フロイト的な云い方をすると大江は、無意識の領域では、核戦争による世界の滅亡を願望し、その願望を意識的には打ち消すところに、『世界終末の核戦争への想像力を育てよ』という主張があらわれるというメカニズムになる。

 わたしはにわかに大江健三郎の反核への長年の固執の根拠にすこし興味を覚えた。この種の思想の病理が、もっと深刻につきつめられた例を、かつてシモーヌ・ヴェイユの思想にたどったことがあったからだ。」


 シモーヌ・ヴェイユと

 大江健三郎氏


 ちなみに、吉本隆明さんが名前を挙げたシモーヌ・ヴェイユ(1909年〜1943年)は、フランスの哲学者です。父はユダヤ系の医師、兄のアンドレ・ヴェイユは数学者です。

 シモーヌ・ヴェイユは、第二次世界大戦中、ほぼ無名のまま、34歳という若さで客死しました。しかし、知人に託されていたノートがあったのです。戦後、このノートを編集した箴言(しんげん)集『重力と恩寵』が出版されました。そして、ベストセラーになった。そういう経緯があります。

 私が、吉本隆明さんにインタビューさせていただいた時も、やはり、このシモーヌ・ヴェイユの名前が出てきました。吉本隆明さんは、シモーヌ・ヴェイユの思想を大変高く評価されていました。シモーヌ・ヴェイユの思想は、吉本隆明さんによれば、「戦争自体がダメである」という、戦争自体を全否定する、「究極の思想」である、とのことです。

 吉本隆明さんは、同書の中で、シモーヌ・ヴェイユと大江健三郎氏について、さらにこう続けて述べておられます。

「第二次世界大戦期に、ナチス突撃隊の生命を捨てた祖国への献身的な奉仕の無鉄砲さに押しまくられて、敗退する連合国の有様をみて、このナチス突撃隊の捨て身の献身の理念に対抗できる唯一の理念は、戦場で負傷した前線の兵士たちに生命を捨てて献身的に奉仕する母性原理いがいにはないという結論に達する。(中略)

 優れた思想の理念からでたギリギリの帰結が、現実的には負傷した第一線兵士たちへの、戦場での看護婦による捨て身の慰安、勇気づけ、介抱にしかならないという悲喜劇を、ヴェイユは思想の必然として演ずる。わたしはこのヴェイユの思想の痛ましい倒錯と悲喜劇を嫌いではない。ある意味で優れた思想がかならずといっていいほど、現実に演じてきたドラマだともいえる。

 わたしは大江の反核の理念、その終末観にほとんどこれとおなじ病理と必然を感じ、大江を見直す気になった。もちろん理念の悲喜劇として、である。いささかも理念の正当性としてではない。」

 吉本隆明さんは、大江健三郎氏の「反核の理念」を、「悲喜劇」としては見直す気になったが、「いささかも理念の正当性ではない」と述べておられます。この論述に、吉本さんの考え方、思想がよく表れています。


「反核」に異を唱える

 吉本さんのモチーフ

 

 もう少し、吉本隆明さんの著書『「反核」異論』に即して、吉本隆明さんの考え方、思想を追ってみましょう、同書の中の記述です。

「この連中はいまでも、ソ連は平和勢力で、米国との対抗上やむをえず核軍備を増強し、軍拡競争に応じているのだという。〈迷信〉を捨てかねている。またこれにたいし米国をはじめとする高度資本主義国は、いまだにレーニンがかつて規定した帝国主義的な段階にあり、その膨張政策を、軍備を脅しに使って企てているとおもっている。

 だがおれたちは高度資本主義は新しい段階に入り、植民地をつぎつぎに放棄しつつある段階と考えている。むしろ軍事的制圧によらないかぎり、米国や西欧の象徴する高度資本主義が、ソ連型の〈社会主義〉体制に逆行することは必然的にありえないとおもっている。

 おれたちが理念のモデルを作るとすれば、高度資本主義が止揚されるモデルで、ソ連型社会主義とは似ても似つかないものだ。おれたちは明瞭にこの連中と分岐し訣別している。妥協の余地など赤裸々にいえばどこにもない。

 現在の高度資本主義国は、いちように帝国主義的な植民地を放棄し撤退を余儀なくされつつあるのにたいし、ソ連をはじめ〈社会主義〉後進諸国は、経済的、軍事的、政治的必要からある意味で帝国主義的膨張政策を余儀なくされている。」

 そして、吉本隆明さんは、同書の「後註」の中で、こう書いておられます。

「この論稿をかいた時期では、『反核』についてそれ以上のことは云わなくてよいと思われた。だが事態は、予想を超えて過熱してゆき、わたしがもっとも深い関心をもつ、非政治的・非組織的大衆のうえにも真剣に受けとめられはじめた。そうなるにつれて、それをじぶんの力量の結果であるかのように錯覚し、思い上がり、図に乗りはじめた連中が、マス・コミの世論操作を背景にして、匿名・署名の非署名者狩りの批判をばらまきはじめた。

 わたしはその様相のなかに、戦争体験と戦後の政治的な、また社会的な体験が消化し乗り超えたはずの理念が、そっくり蘇生してくる姿をみて、不気味になりほとんど絶望感に襲われた。この過熱自体はさほど根拠のない虚報のうえに躍った虚構だから、やがて定常な状態に戻るだろう。

 ほんとうに『反核』と『反戦』と『平和』の理念が問われ、場合によってはその理念の戦場に赴くことがあるとすれば、その後なのだ。だがわたしはだんだんこの過熱を背光として流布される理念と情念を黙ってやりすごすのは、思想者として失格だとおもえてきた。これが『停滞論』にとどまらずに『反核』問題に言及することになった最初のモチーフである。

 加えられた批判的雰囲気の総体を、反批判し返すという意味からは、わたしは充分にじぶんの理念を解放できている。だがわたしのなかには『反核』の問題は、『米国』と『ソ連』の核戦争体制を、軍事・政治体制や経済社会的本質として根底的に否定し、それにたいする批判と抗議にすすまなくては空しい、見せかけのものだという思いがつきまとって離れない。」

「 わたしの敵対者たちは現在でも、お前の発言は既成左翼、進歩派批判において保守派とおなじで、保守派を勇気づけるものだというデマゴギイをふりまいている。だがわたしは公然と云う。そんなことは問題じゃない。大切なのはそんなデマゴギイが真正の批判を挫けさせる世界史的な段階は完全に終焉したのだということだ。

 わたしと保守派との『反核』批判での差異ははっきりしている。保守派は、真理を資本主義的な利害と、商業的なためらいの範囲と限界の内部でしかいつも開陳できない点で、わたしの敵対者たちが『反核』を理念的神学の範囲と限界の内部でしか提起できないのと似たりよったりなのに、わたしの批判はすくなくともその範囲と限界を超えようと志向していることだ。」

 吉本隆明さんの主張は、概(おおむ)ね、こうしたものです。


 論争に火をつけた

 埴谷さんの雑誌掲載文


「埴谷VS吉本論争」が本格的に勃発(ぼっぱつ)したのは、「海燕(かいえん)」(福武書店)という雑誌においてでした。

 先ずは、埴谷雄高さんが、「海燕」の1985年2月号で、「政治と文学と ——吉本隆明への手紙」という文章を発表されます。なお、埴谷雄高さんの文章中の「客」とあるのは、吉本隆明さんの著書『情況への発言』からの引用です。吉本隆明さんは『情況への発言』の中で、「主」と「客」というふうに対話形式で書いておられるのです。

 以下は、埴谷雄高さんの文章です。

「私の発言を、『客』はもう一度ゆっくり読直して下さい。そうしたら、『埴谷雄高が左翼できみ(吉本)が王党派だという比喩は、比喩としても滑稽だよ。』という滑稽な読みとりなど、できない筈です。

 ここで述べられている私の発言は、『文学の本質』は政治的見解の差異など問題にせず、ひたすら、その作品の内容のみを問題にするのだ、といっているのです。大ざっぱにいえば、自称左でも、他称右でも、優れた作品も、くだらぬ作品も書くのであって、『左』だからいい、『右』だからだめだ、とか、或いは、その逆の『政治的』角度からの評価など、『文学の本質』に関係ない、といっているのです。」

 ちなみに、埴谷雄高さんは、自身が考える「思想」というものについて、同誌の中でこう述べておられます。

「いまのいまの『事実』と『事実』と『事実』のあいだの『見えざる連関』を『内的透視』しようとすることこそ『思想』です。」

 そして、「客」をこう批判しています。

「『現在』のみを述べるだけのこの『客』には、さらに、『現状追随好き』をも附加するべきでしょう。こういう『現状追随好き』の「客」には「革命」について語ることなど許されておりません。」

 埴谷雄高さんは、さらに、こう続けられます。

「この『客』が栗原貞子も埴谷雄高も含めたところのあらゆる発起人も賛成者もそれぞれ異なった『内面的考察』をもって『自由な輪』へ加わったという『文学的視点』をまったくもっていず、あらゆる『組織』や『運動体』や、さらには『個個人』までも一枚岩の『同一理念』を保持しているという『政治的視点』しかもたないのは、困ったことです。

『人民の敵』という自分以外の他をどうにでもやりこめられる抽象的で大まかな単一基準で、他のすべてを、『ひとしなみに』、非難、投獄、虐殺した『スターリン主義」—— 嘗て『よく』、いま『悪く』、将来また『よく』なるかも知れない『スターリン主義』を見事に『先取り』して『客』自らそれを全面的に身につけていながら、そのことに気づかず、自分以外の他をスターリン主義などと呼んでいるのは、滑稽です。」

 そして、埴谷雄高さんは、「客」の言い分を、こう訂正するべきだと主張されるのです。

「ついでに、この『客』の発言を、つぎのように訂正しておきましょう。『左翼を名乗りながら『深い洞察力も広いヴィジョンももたぬ』くだらぬ左翼にくらべれば、反動を名乗りながら『内面の洞察力をもった』反動、ファシズムを名乗りながら『内面の洞察力をもった』ファシズム、保守を名乗りながら『内面の洞察力をもった』保守のほうがまだ許せるんだ。』」

 埴谷雄高さんは、「客」にこう訂正を求めた上で、吉本隆明さんの著書『情況への発言』の中の「主」の発言を引用します。

「(主) もともといくら老いても、こんなたれ流しみたいな回想談をすくなくともおまえはやるな。やりたくなったり、やることを誘われたりしたら拒絶しろ。そういう自戒の鏡としてしか、おれはこの手の回想談なんぞに興味がない。

 岩波製「反核』の論功行賞でこんな企画をもちこまれて、『世界』みたいな鳥肌が立つような雑誌に頼まれたら、埴谷雄高はどうして拒絶しないんだ。制度が固い知的ないい雑誌だとか、いい大新聞だなどと評価している場所で、何かいうのは耻かしいことなんだぜ。

 埴谷は戦後何十年もの思想的な営為を、どうして一夜にしてなし崩してしまったんだ。もちろん『死霊』の作者にとって『死霊』という作品だけしか重要でない。だがそう云えるためには代償がいる。政治理念的に現実勢力に加担しないことだ。それだけではないスターリンの亡霊を許容しないことだ。」

 こう「主」の発言を引用した上で、埴谷雄高さんは「主」を批判されます。

「 ところが、この『岩波製「反核」の論功行賞でこんな企画をもちこまれて、『世界』みたいな鳥肌が立つような雑誌に頼まれたら、埴谷雄高はどうして拒絶しないんだ。』という『岩波製「反核」の論功行賞』という意見が、またもや困ったことに、『思い違い』です。

 ボケ老人の埴谷雄高より若い吉本隆明に、こうした『思い違い』があるとなると、私を触発してくれている嘗ての著作、そして、いまもなお私を触発してくれている進行中の『心的現象論』も、細密に読めば『思い違い』があるのだろうかという不安までおこさせては、まことにまことに困ります。」

「中野孝次にとって記念的な十一月八日は、私達の対談(注:大岡昇平氏との対談)の第一回目、六月二十二日から4箇月も以上も『あと』で、『さき』におこなわれた対談が、『あと』にはじまった『反核』の『論功行賞』となること、どんな歴史の手品を使っても、あり得ることではありません。これは、『情況への発言』の『主』であるあなたの『思い違い』です。」


 埴谷さんが吉本さんに

 自覚と自戒を促す「臆病さ」


 埴谷雄高さんは、「海燕」(1985年2月号)誌上で、吉本隆明さんの「思い違い」を指摘した上で、吉本隆明さんに「訂正」を求めておられます。

「あなたの大岡昇平宛ての手紙の『第一信』と『第三信』の全文をここに掲げました理由は、あなたの丁重な訂正申し入れ書を受けとって、大岡昇平が訂正したのとまったく同じく、前述のごとくあり得なかった、『岩波製「反核」の論功行賞』で対談が企画された、という部分をあなたに訂正していただくためであります。どうか訂正をお願い致します。」

 と、吉本隆明さんに「訂正」を求めた上で、自らの心情、思想を述べておられます。

「さて、つぎに『主』の前述の発言のなかの『埴谷は戦後何十年もの思想的な営為を、どうして一夜にしてなし崩してしまったんだ。』に似た言葉が、あなたと理念の違う『反核』の発起人となった吉行淳之介、賛成署名者となった島尾敏雄、井上光晴、奥野健男たちに向けられていないのは、『文学としての救い』です。

『主』たるあなたは、反核運動のひとびとを、すべて『ひとしなみに』に扱う『客』と違って、それらのひとびとの内的差異を直覚的に、即ち、文学的に『内的透視』していて、私を深く喜ばせてくれました。」

「文学の本質は、フランソア・ヴィヨンがひとを殺傷し、窃盗しようと、或いは、ドストエフスキイがツァーに向って請願の手紙を書こうと、それで、その『何十年もの思想的な営為が、一夜にしてなし崩し』になってしまうほど、弱いものではありません。『近代文学』の創刊に際して、本多秋五と私が申し出て、こういう申し合わせをしています。


  時事的現象に捉われず、

  百年先を目標とす

 

 ヴィヨンやドストエフスキイにとうてい及びませんけれど、私はこの申し合わせに従っています。


  政治は、つねに、現在、

  文学は、つねに、永遠。


 極端に要約してしまえば、私の内面の中軸にあるのは、このような『馬鹿の一つ覚え』的姿勢の持続のみであります。百年先は無理でも、『死霊』がもう少しはもつだろうと私が『ボケ』ながら思っているのは、そこに、自我論、宇宙論、存在論の表面や内面をつきぬけた『架空』への工夫の努力がなされているからではなく、それが、ただただ、『無惨な死』を負った死者に支えられているからにほかなりません。

 換言すれば、『戦争と革命の変質と増殖』の時代はなお暫らくつづくのだと、これまた『ボケ』ながら、私は思っているのです。私が死ねば——これは近くやってきて、心筋梗塞も癌もともども可能ですけれど —— こんどは死者の私が、『無惨な死』を負った死者とともに並んで、徒労な何かの闘いを闘うでしょう。」

 そして、埴谷雄高さんは、吉本隆明さんへ、このような苦情を誌上で述べておられます。

「あなたは『臆病』だと、自覚して下さい。弱い犬ほどよく吠える、という真実を知って下さい。昼間は、『馬鹿! いっちょうやるか』と『他人』に向って勇ましく言っても、夜、夢のなかで得体の知れぬ魔物が追いかけてきたら、逃げに逃げつづけるだけで、『ほう、いっちょうやるか』と、その夢のなかの得体の知れぬ魔物に立ち向ったものは、人類史はじまってから、ひとりもいません。

 換言すれば、昼間、『他人』に向って勇ましいものも、夜、夢のなかの『自分自身』に向ってみれば、情けないほど『自分自身』が『臆病』で弱いものと気づかねばなりません。そして、その『誰』にもどころか『自分』にも隠したい『臆病』の発見こそ、『文学の原質』の見えざる初源の最初の直覚にほかなりません。つまり、他人には勇敢でも、自分自身の原質は、臆病なのです。」

 そして、埴谷雄高さんは、雑誌の誌上の最後にこう締めくくっておられます。

「『情況への発言』を、たいへん面白い、というひとがいます。私も刺激をうけていますけれども、『面白い』だけでは済まぬ感をもまたもっています。というのも、あなたが『詩』を書くときだけ『詩人』で、多様に拡がった領域の思想考究を触発的に記すときだけ『思想家』であってほしくないのです。

 まさにいまの現実に直面した率直な直言である『勇壮語』のこの『情況への発言』においても、ほかならぬ詩人のあなたの詩的内包性の閃きが、その行動の諸所に輝きでてほしいのが、いま半ば以上死者となっている私のまぎれもない願望であり、希求です。

 あなたの大岡昇平宛ての手紙をみて、はじめて知ったのですが、大岡昇平と同じく、あなたも糖尿病だとのことです。どうか養生につとめながら、あなたの書くすべてが、『後世怖るべし』の思索的触発と詩的飛翔をもって、これからの若いひとびとのなかへ『リレー』されることを願ってやみません。 (了)」

 もっとも、吉本隆明さんのほうは、大岡昇平氏へ宛てた手紙の中で、こう覚悟を述べておられます。

「文学者の反核運動を契機に、尊敬する埴谷雄高氏とも、遠くから御作品に敬意を抱いてきました貴方(注:大岡昇平氏のこと)とも袂を分かつことになってしまいました。理念の対立はきびしく非妥協的なものであり、その意味で意志を曲げる所存は毛頭ございませんし、時に応じて『慢心』と御批判を蒙るような発言もいたして参る存念であります。」(「海燕」 1985年4月号)


 吉本さんが指摘する

 埴谷さんとの「異空間」


 さて、埴谷雄高さんが「海燕」(1985年2月号)誌上で、吉本隆明さんの「思い違い」を指摘し、吉本隆明さんに「訂正」を求めておられた件についてです。

 吉本隆明さんは、次号の「海燕」(1985年3月号)誌上で、「政治なんてものはない——埴谷雄高への返信」と題した文章で、こう返答されています。

「貴方が青年期にカントの先験的弁証論に震撼されたほどではないですが、ヘーゲルの歴史哲学や論理学から『現在』を考える方法をたくさん示唆されている私は、あの感想の対立する『主』と『客』にある内的操作を施すと『私』に統一されます。」

 と、先ず、吉本隆明さんは、「主」と「客」の対立から、内的操作を施し、「私」に統一されるということを解説された上で、埴谷雄高さんからの「訂正」要求に応じることを、同誌上で、承諾されています。

「まずはじめに、貴方が訂正を要求された箇所は、事実と反することが納得されましたので、根こそぎ削除いたすことを約束いたします。」

 その上で、吉本隆明さんは、続けて同誌上で、埴谷雄高さんにこう反論しておられます。

「貴方と私とのあいだに横たわっている齟齬に、誇張していえば恐怖をおぼえました。貴方と私とはおなじ『現在』に、さして遠からぬ場所に住っているのですが、ほとんど異空間にいるとすら感じました。

 もちろん貴方にだけ異空間を感じているわけではありません。貴方は私が、じぶんの臆病や弱さに自覚がないと書かれて、臆病や弱さに興味をお持ちのようですから、そこから入ってゆきましょう。

 貴方とちがってカントの先験的な形式論理よりも、ヘーゲルの観念の弁証論の方に惹かれる私には、臆病や弱さの対極に勇気や強さがあるというような対立形式や、臆病や弱さの人間の対極に勇気や強さの人間が存在するといったまやかしは一向に興味がありません。

 人間は臆病や弱さと同在に、勇気や強さを持つ存在なのです。臆病や弱さがたまたま表層に露出しているときには、基層に勇気や強さが存在している状態にあります。勇気や強さが表層に露出しているときには、臆病や弱さが基層に存在している状態にあります。これがあらゆる人間の存在形式です。」

「貴方が異空間の理念的な諸類とおなじではないかなと思いはじめたのは、『二つの同時代史』を読んだときがはじめてではありません。あの文学者の『反核』発起人のなかに、貴方の名前を見出したときからでした。

 貴方が私への手紙で、ひとことの内省の言葉もなくかえって私を次のように非難しているのを読んで、残念ながらますます貴方を異空間に住む理念的な諸類に括り得るという確信を深めるばかりでした。」

 そして、吉本隆明さんは、先に紹介した埴谷雄高さんの主張に反論されます。埴谷雄高さんの主張とは、次のような主張です。

「この『客』が栗原貞子も埴谷雄高も含めたところのあらゆる発起人も賛成者もそれぞれ異なった『内面的考察』をもって『自由な輪』へ加わったという『文学的視点』をまったくもっていず、あらゆる『組織』や『運動体』や、さらには『個個人』までも一枚岩の『同一理念』を保持しているという『政治的視点』しかもたないのは、困ったことです。」(「海燕」 1985年2月号) 

 この埴谷雄高さんの主張に対して、吉本隆明さんは、同誌(「海燕」 1985年3月号)上で、こう反論しておられます。

「これは貴方らしくもない驚くべき詭弁としか云いようがありません。貴方は、貴方たちが起草し、貴方が発起人として署名された『声明』の内容を忘れてしまったのでしょうか。 

 そして『朝日新聞』『毎日新聞』などの大商業新聞、岩波の雑誌『世界』をはじめとする商業雑誌、テレビ放映が、文学者『反核』に異論を唱えたものを抹殺すさまじき勢いで、匿名、署名の非難の大キャンペーンを展開したことをもう一度思い出していただきましょう。」

「貴方がどう弁解しても、この『署名についてのお願い』や『声明』が、アメリカ・レーガン政権が欧州に戦域核兵器を配置したために核戦争の危機が高まったという認識に立っていても、ソビエト・ロシアが欧州大陸とアジア地域に向けて核ミサイルSS20の核配置を完了していることについて、片言せき句も触れられていないソビエト・ロシア一辺倒のものだということはまぎれもないでしょう。」


 「反核」にソフト化した

スターリン主義を見る吉本さん


 吉本隆明さんの同誌(「海燕」 1985年3月号)上での反論は続きます。

「文学者『反核』運動は、はっきりした党派的な理念をもった『署名についてのお願い』と『声明』を中心にして集まった運動体であり、決して『刺されちゃいやだな、といった素朴なもの』でないことは、私の指摘がなくても、読めば誰の眼にも明らかなことです。

 ある運動体がはっきりした理念をもった『お願い』と『声明』をもとに結集させられたとき、それの発起人も『賛成者』も、その『お願い』と『声明』を承認したその限りで、そこに盛られた『同一理念』を基本にした集まりと見做されるのは当然ではないですか。

 まして貴方は発起人であり、しかもひとつの運動体がひとつの公表された『声明』の理念に基いて集合されるとき、個々人はその『理念』とみなされることを、政治的組織の体験を経てこられた貴方は充分に承知のはずです。

 だからこそ文学者『反核』運動は、栗原貞子のような愚劣な空怖ろしい理念の表明を誘発したのです。商業新聞には『読者の投書』の名目を借りて『「反核」に署名しなかった文学者の名前を公表せよ』という文章が掲載されました。(中略)

 こういった無数の反応のどのひとつをとってきても、ソフトになったスターリン主義の周辺に収斂されてゆくより仕方がない反応ばかりでした。」

「もちろん発起人の個々の文学者の仕事の質も、個性もちがっていること、を私がわきまえないはずがありません。まして私は貴方の作品『死霊』や貴方の理念の熱心な、たぶんかなりよく理解していると自負している読者でもありますから、貴方と栗原貞子がちがった『内面的考察』をもっていることも、一枚岩の『同一理念』を保持していないことも間違いなく理解しているはずです。

 しかしながらはっきりした党派的理念をもった『声明』や『署名についてのお願い』を発起し、そのもとに集まったのですから、貴方も署名参加者も『理念』として『同一』と評価され、『同一理念』として批判をうけ、『声明』の『理念』として責任を問われるのは云うを待たないでしょう。」

「貴方(がた)の文学者『反核』の『声明』や『署名についてのお願い』が、じかにまた暗黙のうちに擁護しているソビエト・ロシアでは、丁度そのときおなじ『反核』運動の推進者が、国家権力の弾圧をうけて亡命あるいは逮捕されたものとうけとることができる記事です。

 これが『現在』の社会主義『国』と先進資本主義『国』において、理念が逆立ちしてあらわれているほんとの姿です。このことを踏まえない善意やヒューマニズムの運動体が、ほんとは別のものに転化してしまうことを、少なくとも貴方の理念はよく御存知のはずではないでしょうか。」

 吉本隆明さんは、埴谷雄高さんが指摘した「臆病」や「弱さ」の自覚ということについて、自身の感想をこう述べておられます。

「貴方は私が臆病や弱さの自覚をもつことをすすめておられますから告白しますが、当時商業新聞、商業雑誌、テレビなどの『反核』キャンペーンと、反核スターリニストのざん謗のなかで、これだけのことを書くためにも、臆病と弱さを抑え込み、勇気と強さを表層におし出すのに、相当な重圧を感じなければなりませんでした。

 ただ私は私の理念的な表明が、世界的な視圏に届いているという確信だけに支えられる体験をしました。もちろん貴方からの支援の声など一言も私の耳にはありませんでした。私が貴方の『バルザックが王政派であろうとなかろうと、それはバルザックの作品を割引きもしないし、つけ加えもしない』という意味を誤解するはずなどありえませんが、それでもこんな比喩で『吉本隆明はいまは反反核のほうへ行って、僕は反核のほうに行ってる』などという弛緩した発言をしている貴方をみて、異議をとなえるのは私の立場からはやむを得ないことを推察していただきたいと存じます。」

 そう述べた上で、吉本隆明さんは埴谷雄高さんに迫っていかれます。

「貴方の発起された『署名についてのお願い』や『声明』のどこに『ノヴァヤゼムリャの実験場の(ソ連の ⎯⎯註)兵士と技師はモスクワへ向かってまず(原爆を⎯⎯ 註)発射すると警告しろ』『それからアメリカの兵士と技師はワシントンに向けて警告して』即時に軍備の廃止、国家の廃止を求める脅迫を、ロシアとアメリカの国家権力に求める、という二十年前の貴方の思想の叡智のきらめきが、片鱗でもあったでしょうか。

 あるのは核軍備にまでもちこまれたつまらぬ反米親ソの党派的な理念と、思想的な実質の伴わない空疎な『人類の破めつ』理念だけではないでしょうか。」


 吉本さんが埴谷さんに問う

「永久革命者の悲哀」のゆくえ


 吉本隆明さんは、埴谷雄高さんがお書きになった「永久革命者の悲哀」を持ち出し、同誌(「海燕」 1985年3月号)上で、こんなふうに追求されていきます。

「埴谷雄高さん。

 貴方はかつて『永久革命者の悲哀』を書いて『彼の同盟者も判定者もひとしく未来で』あり、『ときには頭を擡げて広言をはいていることがあるが、たいていは、その仕事があまりにも広大で困難なので、甲虫が一片の土塊をだいているようなふりをしながら、のんべんだらりとしている。』ような永久革命者の存在の余地について、閃光のような鮮やかな啓示を私たちに示しました。」

 と、吉本隆明さんは、先ず、埴谷雄高さんの「永久革命者の悲哀」の思想に敬意を示しつつ、こう述べておられます。

「レーニン ⎯ スターリン主義の理念的枠組を保持し、レーニン ⎯ スターリン主義の時代の理念と空気を呼吸しながら、しかもレーニン ⎯ スターリン主義の責任を弾劾しうる場所を、思想的営為によって表示した理念を、貴方とシモーヌ・ヴェイユにみている私には、貴方が『現在』いちばん重大な思想的な迷信の党派性に足をとられていることが無念だったことの印しとして、あのような評言はあり得たのです。

 貴方は文学者の『反核』などを発起すべきではありませんでした。あの『声明』とあの『署名についてのお願い』の理念で運動体を発起すれば『頭』はソフトになったレーニン ⎯ スターリン主義の現在の補完物、『胴体』はレーニン—スターリン主義同伴者の『市民運動』、そして『足』は〈戦争はもうごめん、核戦争はなおさらごめん〉という大衆の願い、ということになるにきまっていて、総体が反核ではなくて、ソフトになったレーニン ⎯ スターリン主義の軍拡に寄与する結果になります。貴方の優れた理念の場所など、どこにも入る余地がなかったはずです。」

「貴方に『現在』に追随し『現在』を止揚しようとする企てが、そんなに安直なものではなく、レーニン ⎯ スターリニズムの有形・無形の圧迫と戦いながら、孤独な営為として少数の人々によってやられてきたことを知って頂きたいとおもいます。」

「貴方が私を『現在』を羅列しているだけの『現状追随好き』と考えるのは、まったく自由ですが、まだロシア革命に『革命』の先駆的体験だと見做したり、理念的宗派の本山と見做したりしている『旧態墨守好き』の日本のふるい左翼や同伴者理念は、私の方からみると『反動』にしかみえませんから、丁度『おあいこ』ではないでしょうか。」

 吉本隆明さんは、同誌(「海燕」 1985年3月号)上で、「私もまた、レーニンの『国家と革命』から戦後たくさんの示唆をうけてきました。」と述べられつつも、現在の先進資本主義国と社会主義国との差異に触れておられます。

「すでに世界の先進資本主義国の体制下で、賃労働者(階級)が、経済社会的にも、思想の自由度でも、生産技術でも、ソヴィエトロシアの賃労働者(階級)の水準線を超えており、その水準線を超えた地域から、その理念が『終焉』を迎えつつある『現在』に立って、レーニン—スターリン主義の理念と挙動をみているのです。このふたつは一見すると近いように思えるかもしれませんが、はるかに隔たったものだ、とおもいます。」


 吉本さんが分析する

 レーニンの思想とは?


 吉本隆明さんは、同誌(「海燕」 1985年3月号)の中で、レーニンについて、こういう見解を示されています。

「レーニンは総体的にいって、『国家』とか『権力』とか『法』のような共同の幻想に属するものの理解が苦手だったようにおもわれます。そういうよりも正確には、『国家』とか『権力』とか『法』とかいう共同の幻想が、どんな実体と具体的な現実機関と表裏となって存在するのかを究めるのが苦手だったし、それを無視したといっていいでしょう。」

「レーニンの唯物論の概念は、人間の思惟の外側に独立した客観的実在を認めようということで、ほんとはそれを認めることは、ほかのどんな立場(マッハ主義のような)を認めることとも無矛盾です。

 いいかえればレーニンは何も云っていないこととおなじなのです。それはレーニンの『国家』や『権力』や『法』が、共同の幻想だということを認めないかぎり、それがどんな統治機関をもち、どんな統治形態と、具体的な条項で存在するかという課題に、永久に入りこめないのとおなじことです。」 

 そこで、再度、吉本隆明さんは、同誌上で、「埴谷雄高さん」と呼びかけておられます。

「埴谷雄高さん。

 貴方はかつて『永久革命者の悲哀』のなかで『レーニンとは、何か。新しい歴史の一頁を開いたレーニンとは、何か。私は、レーニンはただ一揃いのレーニン全集のなかにいて、そのほかの何処にも見出せないと、断言する。』と書いて、私を感動させました。(中略)

 レーニンはほんとに『新しい歴史の一頁を開い』たのだろうか。『一揃いのレーニン全集』のなかに、真理は存在するのであろうか。これは私がいま貴方に申述べてみたい『現在』への入り口です。」」

「ヘーゲルはじぶんの論理学が『この豊かな内容(世界についての豊かな表象)の本質、精神および世界の内的本性』の運動を、内容を充たしたまま抽象し得ているという確信をもっていました。

 レーニンはそれがほんとかどうか確かめているのだとおもいます。そしてヘーゲルの論理の運びの背後から、この世界の具体的な運動の表象が浮びあがってくるのをみようとしているのです。(中略)

 私にはレーニンは唯物論の意味を無意味な浅薄な個所で、固執してしまっているとおもえるのです。」

 吉本隆明さんは、この誌上の最後に、こう綴(つづ)っておられます。

「埴谷雄高さん。

 私の貴方にたいする尊敬は理念の差異ごときで変わるものではありません。貴方の優れた長篇『死霊』が完成される日がきますよう。また平安な、香気と色彩のある生活の日々が、いつまでもいつまでも尽きないよう心から祈るものです。

 私も明日からまた走りつづけなくてはなりません。 (了)」

 しかし、この吉本隆明さんの言葉とは逆に、「埴谷VS吉本論争」は、さらに激化していきます。


 両氏の「立ち位置」の違い


 埴谷雄高さんは、吉本隆明さんの「海燕」(1985年3月号)における「「政治なんてものはない ——埴谷雄高への返信」と題した文章に対して、次号の「海燕」(1985年4月号)誌上で、「政治と文学と・補足 ——吉本隆明への最後の手紙」という文章を書いて、吉本隆明さんへの最後の返信とされています。埴谷雄高さんは、こう書いておられます。

「あなたは、私が『クロンシュタットの反乱』について記すような『初源』のレーニンとその党派を論ずる遠い位置にあり、あなたが『現在』に立って、『終焉』におけるレーニンの意味と無意味について考察する位置にいる、という、いわれてみると当然のことながら、私もあなたも同一問題の困難に直面しているのだろうといった『大ボケ』のなかにいる私の気づかぬ極めて斬新な視点を提出しました。それは、あなたと私の関係の異同の核心を僅か数行で明確化したものです。

 大ざっぱにいえば、レーニンも私もまた、確かに、エンゲルスの『国家は、つねに、災いである』という生涯取り除きがたい巨大単一な夢魔にとりつかれて、『国家の死滅』のみをひたすら志向した世代にほかなりません。

 そのレーニンも私もまた、もし『国家の死滅』をもちきたし得なかったとき、まさにそのときの国家の『現在』の具体像を明確に思い描くべくには、あまりにも遠い時代に生まれました。」

 こう先ずは、両氏の世代の違いに触れられた上で、埴谷雄高さんは、こう論述を進めていかれます。同誌には、こうあります。

「まことに、『現在』においては、『国家の死滅』など古い譫言で、レーニンの示唆性——『見事な個所からの抜き書きと、レーニンのメモがふんだんにあり、レーニンの豊かな直観と一級品といっていい問題意識のフォーカスの的確さ』をいま呈示したあなたに同意せざるを得ません。

 レーニンは、ヘーゲルを『顚倒』しようとして、『はっ、はっ』と皮肉に嗤ったりしていますが、それは僅かな部分で、ヘーゲルは生存当時、多くのヘーゲル右派、中央派、左派のひとびとがヘーゲルに深く傾倒したごとく、誠心をもってヘーゲルを読みこんでおり、ヘーゲルのカント批判などの場合、trés bien と幾度も歓喜しながら傍記しています。

 私達は、ヘラクレイトス、ゼノン、プラトン、ゴルギアス以来、カント、ヘーゲルへと弁証法的思考法の道を長く長く長く辿ってきていて、『有と無の両者を自己のうちに含んでいないものは、天にも地にもない』という考え方を極めて至当自然通常なものとして受けとるにまで至っています。」

 こう述べられた上で、埴谷雄高さんは、吉本隆明さんの文章を引用されます。以下は、吉本隆明さんの文章です。

「貴方とちがってカントの先験的な形式論理よりも、ヘーゲルの観念の弁証論の方に惹かれる私には、臆病や弱さの対極に勇気や強さがあるというような対立形式や、臆病や弱さの人間の対極に勇気や強さの人間が存在するといったまやかしは一向に興味がありません。

 人間は臆病や弱さと同在に、勇気や強さを持つ存在なのです。臆病や弱さがたまたま表層に露出しているときには、基層に勇気や強さが存在している状態にあります。勇気や強さが表層に露出しているときには、臆病や弱さが基層に存在している状態にあります。これがあらゆる人間の存在形式です。」(「海燕」 1985年3月号)

 この吉本隆明さんの文章について、埴谷雄高さんは、同誌(「海燕」 1985年3月号)で、こう論評されます。

「これは、当り前のことです。あなたへ私が、自分の臆病を自覚して下さい、と述べたのは、人間が臆病と勇気を同一にもつ存在であることの確認の上で、勇気あるあなたが臆病を論理化するとき、政治的視野から大きく文学的視野へまで『移行』することを願ったからにほかなりません。

 自分の内心を覗くことが、同時に、他人の内心を覗くことになるのだという当り前のことを、いわば『ボケ老人』の老婆(?)心として私が述べたのであって、カント的対立形式を述べたのではありません。

 なお脇道ついでにいえば、カントに震撼された私のカント心酔は、できうる限りのカント顚倒の努力の出発点にほかなりません。簡略化していえば、カントが『できない』といったことは、小説の構想力をもってすれば、『できる』と私は思い、また、それを証明するため『死霊』を書いているのです。」

 埴谷雄高さんは、『死霊』を書く根本のところを、さらに続けて、同誌でこう述べておられます。

「『言葉』自体が、ある事実との対応のほかに、『事実以上の未出現事実』の幕を開く『魔術化』の架空性をもっていると私自身思ったからこそ、カント反逆の『妄想小説』への私の移行も生れたのだといわねばなりません。」


「一点」のみに賛同する

 埴谷さんの思想


 埴谷雄高さんは、署名運動に関わるご自分の「思想」のあり方を、「海燕」(1985年4月号)誌上で、こう説明されています。

「ところで、『現在』における一種不可思議な運動体である署名運動なるものの『異空間』的内容を、すでに遠くあなたは経験しているのです。それは、まさに遠く、二十三年前、あなたが公開の質問状を発し、私がそれに答えたときにこそ、あなたの『異空間』感はあるべきでした。」

 それは、埴谷雄高さんによると、「投票はしないけれども名前は自由に、と黒田寛一君の応援者に答えたとき」だそうです。

 埴谷雄高さんは、同誌上で、吉本隆明さんに呼びかけ、説明されます。

「どうぞ思い出して下さい。革共同全国委員会を支持しない私は、『反議会主義』というただ一点のみに賛成し、黒田寛一応援の署名人のひとりとなっているのです。

 私が一から百まで『同一理念』をもったところの或る運動体に加わることをせず、『僅か一つの賛成点』だけをもって、『自由な輪』へ加わるのは、同一理念をもって強制圧迫するスターリン主義を体験した一結実にほかなりません。そして、そのような私は、そのときどき、つねに、『無責任』と非難されてきました。

 あなたは、現在の『マス・イメージ』のかたちを鋭く追求しているのですから、このような単純、複雑、分裂の混淆した『署名運動』の奇怪な横行ぶりを分析されていないのは、不思議といわなければなりません。

 この『署名運動』なるものには、『破門』も『除名』もなく、それぞれ『理念』を異にした誰でもたった一つの賛成点だけで携えて自由にはいってゆける無限定な便利さがあると同時に、そこには時間をおけば、忽ち、風化しひとつの虚名体と化してしまうという不可避な限界性をもまたもっています。」

 埴谷雄高さんは、こう述べられた上で、同誌で、吉本隆明さんの「簡明すぎる推定』を批判されます。

「ソフトになったレーニン ⎯ スターリン主義、『市民運動』、核戦争はなおさらごめん、という大衆の願い、の三つの組合わせが軍拡に寄与する結果になるという複雑な論理を駆使しているあなたは、ところで、『声明』でも『お願い』でも、あまりに簡明すぎる推定をしています。そこに、アメリカの巡航ミサイルについての記述があっても、ロシアのミサイルSS20について記していないから、『容共』だという推断です。

 双方の文章の核心は、『核兵器の全廃』とか『核兵器の廃絶』とかいう一行にこそあって、巡航ミサイルとか、或いはミサイルSS20をとりいれても、それらは単なる修飾語にしかすぎません。この『核兵器』なる言葉について、米ソ両大国だけを連想しようと、英、仏、中国の核兵器保有国をも想起しようと、すでにそれが製造されているといわれているインド、イスラエルにまで思い及ぼうと、それは『各人各様』でいいのです。」

「私は、前回の文章で、馬鹿と小悧巧の二重存在である私達について述べましたが、私達はつねに、『解体』とその解体からの『現在超出』の同一性のなかにいます。『一点賛成』の『署名運動』は、いってみれば、敢えてした『自己解体』によって『全解体』に抵抗しようとする一種逆説的な、広くかぼそい、『根があって根がない』不思議な現代的運動形態ですが、しかし、『解体』と『現在超出』の努力は、勿論、この二十世紀の現在だけのものではありません。」


 埴谷さんは「一冊の書物」に

 全変革の理念を込める


 そして、ブルジョアジーが決定的に権力を摑(つか)もうとした時期に、デンマークの哲学者キルケゴールが、「幾分暗く、皮肉で、そして、決定的な調子で述べた」という「解体の時代」についての言説を、埴谷雄高さんは例に挙げておられます。

 埴谷雄高さんは、同誌(「海燕」 1985年4月号)の中で、19世紀の精神史を振り返り、こう語られるのです。

「1843年、キェルケゴールの『あれか、これか』、1845年、スチルネルの『唯一者とその所有』、そして、1848年、マルクスの『共産党宣言』の三つの書を並べてみれば、それが奇しくもヘーゲルの同じ使徒であったことに気づきますが、しかし、この資本主義の勃興期にかぎらず、それ以前の封建時代にも、また、遠いエジプト時代にまで遡っても、また、そこに、『解体』とその解体からの『現在超出』の努力の同一性が存することは、暗い悲痛と底もない無念とともに、私達を鼓舞する『手放すべからざる自己超克の緊迫力』をも覚えさせます。

 これを大まかにいえば、『解体』と『現在超出』の同一性こそ、人類の大きな幅をもった精神史の内実にほかなりません。」

 そう述べたのち、埴谷雄高さんは、ご自身が偏愛されているエジプトの王、アクナテンの名を挙げておられます。埴谷雄高さんによれば、「紀元前千三百七十年、当時ひとびとの思いもかけぬ平和革命を開始した」のが、「革命王アクナテン」だそうです。

 ちなみに、アクナテンは、紀元前千三百五十八年に毒殺されたとのことです。埴谷雄高さんは、このアクナテンの次のような言葉を感慨深げに引用しておられます。


 「『永遠なるもの』の王国は

  地上から消えた。

  またしても世の中は

  昔どおりになるだろう、

  恐れと恨みと不正がまたしても

  世を支配するだろう。

  余は生れてこない方がよかった。

  そうすれば

  この世の悪を知らずにすんだ。」


 そして、埴谷雄高さんは、同誌の中で、こう綴(つづ)っておられます。

「私は、紀元前千三百七十七年から千三百五十八年まで、自己の精神の生ける志向をひたすら具現化しようとしつづけた革命王アクナテンのこの悲痛な絶望の言葉に共感します。」

 埴谷雄高さんは、さらにまた、こう続けておられます。

「そして、遥かのちの現代、あなたと違って殆ど知られていないひとりの思想家が、あなたの希望は? というアンケートに答えて、この愚劣なる人類が一日も早く滅亡すること、と述べたいわば全暗黒の極度の絶望感にも私は共感します。(中略)

 そしてまた、地球も人類もやがて滅亡してしまうのに、共産主義社会を建設したところでどうなるんだ、という全虚無の自虐の悲痛感のみをのこして自殺した田中英光にも共感します。

 とともに、それらのいわば絶対絶望へ対する共感とまったく違って、私は人類の精神の生き生きした『現在超出』の飛躍の持続性が、ひとつの暗い胸裡から他の胸裡へ伝えられてゆく長い長い昇華のかたちをも願っています。

 そして、その希求のいわば極端な妄念化というべきかたちは、私のなかで、国家の死滅どころか、私達人間の存在形式、その宇宙を容れる時間、空間の形式の全変革まで、『一冊の書物』のなかだけで、やっておこうと思うところへまで辿りついてしまいました。」

 このように、埴谷雄高さんは、ご自身の『死霊』に臨む哲学的動機にまで踏み込んだ上で、吉本隆明さんに、こう「遺言的苦言」を呈しておられます。(「海燕」 1985年4月号)

「そして、これが最後の手紙になるのは、もはや先がない私は、あなたが受けいれるかどうか解らぬ苦い薬であるいわば最後の遺言的苦言をここに呈しておこうと思ったからです。

 それを、ほかならぬあなたに呈するのは、あなたが自分で考える種類の本質的思想家だと私が尊敬しているからにほかなりません。

 吾国では、そのときどきの輸入思想の竹馬に乗った種類の『つぎはぎ思想家』があまりに多く、自ら考える本来の思想家は、残念なことに、極めて稀少です。その稀少な思想家だと尊重するあなたゆえ、さらになお二廻りも三廻りも大きな思想家となってもらいたく、容易にのみこめぬかもしれぬ苦い薬であるつぎのような言葉を私は呈したく思います。」


 埴谷さんの「遺言的苦言」が

 論争を決定的なものに


 埴谷雄高さんと吉本隆明さんとの、いわゆる「埴谷VS吉本論争」が、決定的かつ悲惨な様相を帯びてきたのは、埴谷雄高さんが吉本隆明さんに対して、同誌(「海燕」 1985年4月号)の中で、この「遺言的苦言」を呈されてからです。

 埴谷雄高さんが呈された「遺言的苦言」とは、次のようなものです。

「その苦言呈示の思いは、一編集者から一つの大判の雑誌をもらったことから、惹き起されました。一九八四年NO・四四六の『an an』九月二一日号で、その見開きの両ページに、『現代思想界をリードする吉本隆明のファッション』と題された二枚の写真が掲げられています。

 最初の写真には、多くの書物に囲まれた広い書斎で、1,6000円のセーター、一三,八〇〇円のダンガリーシャツを着ながら原稿を書いているあなたの横向きの姿が写されていますが、この書斎の天井から垂れているシャンデリアもテーブル、ランプも豪華だと思いながらも、あなたの勉強ぶりに感心こそすれ、苦言などありません。わたしが衝撃をうけたのは、次のページの写真でした。

 そこで最も賞賛さるべきは、背後の適切な建物を発見し選びだしたカメラマンというべきでしょう。あなたは半円形の鉄の網窓を背にして腰かけていますが、その背後のコンクリートの壁には斜めへ放射状に開く数条の襞が走っていて、あなたの頭部は、まさに『光背』を負っているのです。

 私は、あなたを梅崎春生や武田泰淳や高橋和巳と同じ『内面の強者』である伏目族と嘗て名づけましたけれども、この写真のあなたは伏目でなく、カメラマンの右手を眺め微笑し、なかなかいい顔をしています。

 そして、そのとき、あなたは、六二,〇〇〇円のレーヨンツイードのジャケット、二九,〇〇〇円のレーヨンシャツ、二五,〇〇〇円のパンツ、一八,〇〇〇円のカーディガン、五五,〇〇〇円のシルクのタイ、を身につけ、そして、足許は見えませんけれど、三五,〇〇〇円の靴をはいています。

 このような『ぶったくり商品』のCM画像に、『現代思想界をリードする吉本隆明』がなってくれることに、吾国の高度資本主義は、まことに『後光』が射す思いを懐いたことでしょう。」

 埴谷雄高さんは、ここで、タイの青年の発言を紹介されます。当時、NHKのテレビ放映番組として、世界50ヵ国の若者100人が語り合う特別番組があったそうです。その特別番組で、「タイの青年が発言して、日本を悪魔、と呼んだとき、恐らくアジアの数箇国の青年からでしょう、忽ち拍手が起りました」と、埴谷雄高さんは紹介しておられます。

 そして、埴谷雄高さんは、同誌の中で、こう続けられるのです。

「あなた自身は、『米ソ両核体制を根底的に否定』する少数の文学者のひとりだと自己規定していますが、アメリカの世界核戦略のアジアにおける強力な支柱である吾国の『ぶったくり高度資本主義』のためにつくしているあなたのCM画像を眺めたタイの青年は、あなたを指して、『アメリカの悪魔の仲間の日本の悪魔』と躊躇なくいうに違いありません。」


「CM画像は吉本隆明の思想性

 を否定する」との埴谷さんの宣告


 埴谷雄高さんは、ここまできて、いよいよ、吉本隆明さんの「思想」に踏み込んでいかれます。同誌(「海燕」 1985年4月号)上の、「遺言的苦言」の続きです。

「ところで、あなたがこういう『ぶったくり商品』を身につけるのは、タイの青年の思い及ばぬところの『思想家』としてのあなたに適わしい特殊な考え方があるからです。あなたは、いっています。


 『革命』とは『現在』の市民

  社会の内部に膨大な質量で

  せり上ってきた消費としての

  賃労働者(階級)の

  大衆的理念が、いかにして

  生産労働としての自己階級と

  自己階級の理念(およびそれ

  を収奪している理念と現実の

  権力——その権力が保守党で

  あれ革新党であれ——)を超え

  てゆくか、という課題だと考え

  ております。


 簡単化していえば、資本主義社会において消費者こそ生産者にまつわる理念などもはやすでに越えはじめており、社会主義社会などそんな『革命』はとうていなしとげ得ない、という意味もそこに内包しています。

 その『消費』理念の『生産』理念追い越し説をより具体化して、あなたは、大衆について、こうもいっています。

 

 ただ大衆のレベルでいえば、質量

 ともにそうとう高くなっていて、

 その意味では楽観的に考えていい

 面が沢山でてきました。

 ただひとつ誰にでも気づき、誰から

 も指摘される弱点は、それが

 ぜいたく、高価、奢(おご)り、

 高慢、特権というイメージと結びつ

 いてしまうことだ。

 また無駄な費用の絶えまのない支出

 というイメージと、どうしても結び

 ついてしまうように思える。

 このばあいただひとつの救いがある

 とすれば、ファッションが無限の

 高価、無限のぜいたく、無限の特権

 へと走ってゆくことはかんがえられ

 ないことだ。すくなくとも着こなす

 ということを前提にするかぎり、

 いつも人間の身体性という輪郭に

 ひきもどされる。

(『現代思想界をリードする

  吉本隆明のファッション』)


 高度資本主義の生産の場には、コムピュータやロボットが導入され、その生産の場で『大衆は大衆となり』、また、多様な分野に拡大された消費の場で『大衆は大衆となって』いますけれども、その拡大された多様なかたちをもった食住衣の『消費』のいわば最末端にあるファッション——それも、六二,〇〇〇円のジャケットから、三五,〇〇〇円の靴まで一揃えした着こなしの身体性——のなかでこそ『大衆は大衆となる』といわれては、その大衆は、あなたを『馬鹿』というでしょう。

 あなたは、これまでいろいろなひとを馬鹿と呼んできましたが、たまには、自分が馬鹿と呼ばれ、反省、発奮するといいと思います。」

「それに、あなたは『マス・イメージ論』の『画像論』のなかで、高度資本主義社会における『消費』の意味について、いわばブーメラン風に飛びもどってくる皮肉な優れた分析をしています。購買力を集中させるためのきれいな画像について論じているなかで、こういうあなたにとって不吉な予言をあなた自身しているのです。

『その未来の風姿が明るい生の色彩をもつか暗い死の色彩をもつかは、さしあたってあまり重大ではない。ただ無意識のうちにCMがCM効果の否定実現してしまうかどうかだけが重大なのだ。』

 つまり、あなたはこう予告していることになります。


 現代思想界をリードしている

 吉本隆明のファッションの

 きれいなCM画像は、

 吉本隆明の思想性を否定している。


 ということになります。」


 そして、埴谷雄高さんは、この『遺言的苦言』の最後に、吉本隆明さんに向けて、こう述べられ、文章の終わりとされています。

「さて、吉本隆明さん。

 大岡昇平も私も、すでに吾国の男子の平均年齢を越し、いってみれば、土俵のそとの死に体となってしまいました。私は、この遺言的苦言のあと、あなたについて今後まったく触れません。

 あなたは、どうぞ、自分以外の他は馬鹿であるという『無謬の政治人』とならず、二十一世紀へ踏みこむ若いひとびとへ向って、『自分のなかにいる敵』についての触発的な思索をなお二廻りも三廻りも大きく展開して下さい。

 あなたの鋭くきびしい触発によって、吾国の思想界に輸入思想の竹馬に乗らぬ、同一の根源的課題自体から自ら考えぬく思索者の世界が招来されることをひたすら望みに望んでやみません。 (了)」


 吉本さんが指摘する

 スターリニストへの転落


 埴谷雄高さんのこの『遺言的苦言』を受けて、吉本隆明さんは、次号の『海燕』(1985年5月号)で、「重層的な非決定へ ⎯⎯ 埴谷雄高の『苦言』への批判」と題した文章を載せ、反論されます。その反論の冒頭には、こうあります。

「二度の貴方の手紙を読んでいるうちに、『現在』の貴方の理念が絞られてはっきりした像を結んでくるのを感じました。

 ひとつの側面像は、埴谷雄高はまだまだ健在だなと私を安堵させてくれます。もうひとつの側面像は、あの『永久革命者の悲哀』を書き、長篇『死霊』を書き継いできた昔日の埴谷雄高が、こうまで衰弱してかつて自らが弾がいし、離脱したはずのスターリン主義の軌道に、失速しながら陥ち込んでゆく姿のようにみえます。」

「また別の云い方もできます。そこに二分割されているのは、頭蓋のなかで観念を自己増殖させている永久革命者埴谷雄高と、ひとたび頭蓋のなかに現実の事象を迎え入れた途端に、現在、最低のスターリン主義者と同伴理念が振りまいているデマゴギイと理念的な錯誤のアマルガムを、薄汚い嘔吐のように吐き捨てる、反スターリニズムを装ったスターリニスト埴谷雄高です。」

「今度の貴方の私あての手紙、『現在』の貴方のなかに同在する『高さと卑しさ』をどう理解すべきか、戸惑わせるものでした。わが国では稀有の優れた観念小説『死霊』をものしてきた貴方の知的造形力が、悲しいほど幼稚な速断や誤謬の理念とどうして同居できるものなのか。

 またあれほど鋭くレーニン・スターリン党のなかにある位階制と大衆蔑視を批判した貴方が、どうして『現在』最低のスターリン主義の倫理的なまやかしに類同してしまうのか。貴方が今度の手紙の三、四項でやっていることは、貴方がいつでもスターリンとおなじくデッチ上げで、反対意見を陥し入れることができる資質を持つことを、はっきりとしめしています。もちろんそれと同時にスターリン・テオロギアの俗悪な戦士であることをも露呈しております。」

「文学者の『反核』以後、貴方の背後にどんな守護霊がとりついてしまったのでしょうか。かつてどんな孤立の場面でも、正義を装った卑劣なデマゴギイだけは、後ろだてにしようとしなかった心情の永久革命者はどこにいってしまったのでしょうか。老いや死の自覚は認識者を確からしさの装いの方へ誘引する力をもつものでしょうか。

 こういう諸々の謎を喚び起こされ、濃霧のなかにさ迷う気がして、大きな悲哀に包まれています。」

「私は熟考のすえ、貴方が理念の死に陥ち込んでゆくのを、出来るかぎりの誠意をこめて阻止することが、『現在』まで貴方から蒙ってきた文学と理念の恩顧に酬いる所縁であると思うにいたりました。いましばらく耳を籍していただいて、その後離れ去って下されば、これに過ぎる幸いはありません。」

 吉本隆明さんは、こう述べられた上で、こうも述べられ、留保を付けておられます。

「私もこの応答を最後と呼びたいところですが、いまひとつ釈然としない点がありますので、保留をつけさせていただきます。ただ貴方が最後だと云われるかぎり、私も文学者としての貴方に関わるのは最後に致したく存じます。」


 埴谷さんの「現在」に対する

「妄想」を批判する吉本さん


 吉本隆明さんは、そう留保を付けられた上で、「重層的な非決定へ ——埴谷雄高の『苦言』への批判」と題した文章(「海燕」 1985年5月号)の中で、埴谷雄高さんに、こう批判の刃を向けておられます。

「埴谷雄高さん。

『死霊』の作者としての貴方は観念の極限を体現する諸人物を、思考実験によって作品のなかに彷徨させることができる優れた意味での『妄想』家であることを示しつづけてきました。ところで今度の二度目の私あての手紙では、貴方が現実に起こる事象についても卑しい意味での『妄想』家であることを示してくれました。これは私にとってはじめての発見で、たいへんな驚きでした。そして同時に限りない悲惨を感じました。

 貴方は私にたいして自分以外の他人を馬鹿呼ばわりするななどと強いていますが、私はかつてじぶんの方から論争を仕掛けたことも、故なくして他人を馬鹿呼ばわりしたこともありません。

 また途方もない方言をしているように見えても、根拠もないことを云ったことはありません。貴方は意外とおもうかも知れませんが、論争はいつも受け身であり、馬鹿呼ばわりをしている相手は、貴方の知らないところで、それに価する言動を先に私にやっている場合に限られています。

 だが貴方が今回の私あての手紙でやっていることは、ただ他人を陥し入れるためだけの正真正銘の意図的なデマゴギイであり、弁護の余地などまったく無いものです。」

 このあと、埴谷雄高さんが言及された雑誌「an an」の見開きの両ページに掲げられた吉本隆明さんの写真 ——『現代思想界をリードする吉本隆明のファッション』と題された二枚の写真のことが取り上げられます。吉本隆明さんは、同誌上で、こう反論しておられます。

「何故か雑誌『アンアン』の私の写真姿が、『日本を悪魔』と呼んだタイの一青年と対比されるわけです。貴方に他人の私宅の仕事場にぶらさがった『シャンデリア』や置かれた古い薄汚れた『テーブル』や穴のあいた『ランプ』について、いかにも理念的な意味があるかのような品定めをする『卑しい』習性があることを、はじめて発見したとしても、私には今更貴方を救いようがありません。

 また『アンアン』誌上で、コム・デ・ギャルソンのデザインにかかる『高価な』衣裳を着た私の写真をみて、『衝撃をうけた』貴方の阿呆ぶりを、いまさら矯正しようにも術がありません。

 何しろ貴方はそういう貴方の『視線』のいやしさと阿呆さを、八十歳に近い立派な文学的業績のある老文学者の誇りを投げ棄てて、公開しておられるわけですから。ただ貴方の八十年になんなんとする生涯が、心の貧寒な不幸なものだったのだな、ということをつくづくと考えさせられただけです。」

「貴方の放っているデマゴギイと理念的な錯誤は、最低のスターリン主義者たちが、匿名、署名でここ数年私にたいして口走ってきたものとまったく同じであり、貴方はいまその理念的な同類に転落してゆきつつあるからです。(中略)

 私の『現在』の家は、お寺の借地の上に建てられた『建売住宅』を新聞広告で見付け、銀行ローンで購入したものです。貴方好みの言葉を借りれば、日本金融資本からの借入金でいわば住居の『死命』を制せられているというわけです。(中略)

 貴方の御夫人が亡くなられたとき、焼香にうかがった折に拝見した一人住いの貴方の家に比べて、四倍はおろか二倍の大きさもあるまいと存じております。(中略)

 私にはどうかんがえても品性の『卑しさ』を語る以外の理念的な意味があるとは思えません。」

「貴方の『妄想』はさらに病的に昴進してゆきます。次は雑誌『アンアン』に写りました、コム・デ・ギャルソンのデザインした背広服姿の私の写真に、貴方の偏光眼鏡の奥の『卑しい』視線が注がれるわけです。すると新たなデマゴギイが偽造されてゆきます。

 貴方はじつに『卑しい』発想を臆面もなく同居させることができる人ですね。」


『死霊』に匹敵する

「コム・デ・ギャルソン」の芸術性


 吉本隆明さんは、埴谷雄高さんをこう厳しく糾弾(きゅうだん)されると共に、同誌(『海燕』 1985年5月号)上で、コム・デ・ギャルソンについて解説しておられます。

「貴方は故意に見落しているのかどうか判りませんが、『コム・デ・ギャルソン』は、私たちが『現在』そのデザイン芸術性を世界に誇りうる最上のデザイナー集団だとおもいます。

 私はそのデザイン作品を着た写真姿のじぶんの人相を恥かしいとおもいますが、その写真姿がコム・デ・ギャルソンのCMを務めていることを恥かしいと思っていません。貴方はコム・デ・ギャルソンについて何を勘違いしているのでしょう。

 いま試みに『コム・デ・ギャルソン』の昨年の代表作を『東京国際コレクション・85』に象徴させてみましょう。おなじように貴方の昨年の代表作を『死霊』七章に象徴させてみましょう。

 貴方の作品も優れたものでありますが、私は『コム・デ・ギャルソン』の『東京国際コレクション・85』もまた、芸術性において、『死霊』七章に勝るとも劣らないものだと確信しております。

 私にはそのファッション・デザインが掛値やエキゾチシズムの甘えなしに、数少ない『現在』の世界最高の作品と思えました。」

 吉本隆明さんは、「私は貴方から何を『苦言』されなくてはならないのでしょうか?」と、埴谷雄高さんに疑問を呈されています。そして、同誌上で、さらに埴谷雄高さんに厳しく詰め寄っていかれます。

「残念なことに埴谷雄高さん。貴方は偏見に基づいてまったく見当外れの非難を私にも『コム・デ・ギャルソン』の衣裳の値段にも浴せています。私に貴方ほどの『男前』があったら、むしろ『コム・デ・ギャルソン』の衣服のモデルになったことを光栄としたことでしょう。残念ながらこればかりは生れつきで、貴方の『アサヒグラフ』に写った着流しの風貌には及びもつかず、諦めるよりほかにありません。

『コム・デ・ギャルソン』の衣服は高すぎるのでしょうか? もちろんファッションの最終理念からいえば、高価ではありましょう。けれどもそれは貴方の『死霊』七章が廉価普及用の文庫本に比べたら高価であるのと同じ意味においてであります。

 そして貴方が『死霊』を文庫本にでもして廉価に提供しないのに、『コム・デ・ギャルソン』のファッション作品を高価だという根拠は全くないと考えます。『コム・デ・ギャルソン』のファッション・デザインの作品は、貴方の『死霊』七章に芸術性で劣ることは決してないのです。

「『コム・デ・ギャルソン』は、アジアの後進地域への資本流出などと何の関係もなく、もっぱらフランスを根拠地にして欧米や日本などの先進資本主義国の消費生活を市場としているものです。『コム・デ・ギャルソン』がアジアの民衆を『ぶったく』っているという貴方の言い草が正気で通用するならば、貴方の『死霊』を出版している大出版社『講談社』も高価な貴方の『死霊』を販りつけて利益をぶったくり、アジア民衆を苦しめているのでなければ、辻つまが合わないでしょう。

 では貴方は私がコム・デ・ギャルソンのデザイン服姿でCMを務める結果になっていること自体を非難しているのでしょうか? これまた不可解なことです。」


「アンアン」に登場しても

「アサヒグラフ」には登場しない


 ここで、吉本隆明さんの先進資本主義国の「現在」についての「読み方」が、より明確化していきます。「重層的な非決定へ ——埴谷雄高の『苦言』への批判」と題した文章(「海燕」 1985年5月号)を、さらに追っていきましょう。

「けれど貴方自身が日本資本主義の高度成長を、どう呪詛した言葉を吐かれようと、貴方の作品のCMのために、出版社の営業、経理、編集者、そして貴方の作品に親愛をもつ人々が、どこかでCMに従事することによって、貴方の作品も生活も沾っていることにはちがいないのです。」

 そして、再度、吉本隆明さんは、埴谷雄高さんに呼びかけておられます。

「埴谷雄高さん。

『アンアン』という雑誌は、先進資本主義国である日本の中学や高校出のOL(貴方に判りやすい用語を使えば、中級または下級の女子賃労働者です)を読者対象として、その消費生活のファッション便覧(マニュアル)の役割をもつ愉しい雑誌です。

 総じて消費生活用の雑誌は生産の観点とは逆に読まれなくてはなりませんが、この雑誌の読み方は、貴方の侮蔑をこめた反感とは逆さまでなければなりません。先進資本主義国日本の中級ないし下級の女子賃労働者は、こんなファッション便覧に眼くばりするような消費生活をもてるほど、豊かになったのか、というように読まれるべきです。(中略)

 貴方が無意識のうちに『アサヒグラフ』は高級で『アンアン』は低級だと思っておられるのでしたら、それは貴方が否定しているはずの、いわれない大衆侮蔑から、貴方が脱しきれていないことを意味していると存じます。

 私は貴方と逆に『アンアン』に写真姿で登場することがあっても、制度が高級で程よく上品だと評価する『アサヒグラフ』に登場することは絶対にあり得ないと断言することができます。」

「埴谷雄高さん。まったくおなじ筆法で『アンアン』という雑誌に『ファッションについて』の文章を書き、『コム・デ・ギャルソン』の衣裳を着て写真を撮られている私の姿の見方もまた、貴方とは逆でなければなりません。

 貴方の作品『死霊』のCMや『コム・デ・ギャルソン』の衣服のCMを演じているようないい加減な売文業者吉本隆明ですら、『現在』ではレーニンの理念を冷静に批判的に検討できるような時代になったのだというようにです。

 これこそは理念神話の解体であり、意識と生活の視えざる革命の進行でなくて何でしょうか。やがて『アンアン』の読者である中学出や高校出のOLたち(先進資本主義国の中級または下級の女子賃労働者たち)が、自ら獲得した感性と叡智によって、貴方や理念的な同類たちが、ただ原罪があると思い込んだ旧いタイプの知識人を恫喝し、無垢の大衆に誤謬の理念を植付けるためにだけ行使しているまやかしの倫理を乗り超えて、自分たちを解放する方位を確定してゆくでありましょう。それは『現在』すでに潜在的には、招来されつつあると私は考えております。」

「埴谷雄高さん。その日はいつ顕在化されるのでしょうか? すくなくとも理論的にはその日付を指定することが可能です。それは先進資本主義『国』の賃労働者が、週休三日制を超えたときからだと思います。そのとき消費としての賃労働者と生産としての賃労働者とは自己対立を媒介にして、はじめての抑圧勢力(それは貴方や理念的同類のようなスターリン理念であっても、保守的な資本理念であっても同じです)を超えるために、あらゆる場面でたたかいをはじめるでありましょう。

 よく知られているようにマルクスは『資本論』の第一巻で、ひとつの章全部を『労働日』の解明に充てています。」


 先進資本主義国を「単色の悪魔」

呼ばわりする偽装倫理 


 吉本隆明さんは、同誌(『海燕』 1985年5月号)の中で、こう解析を進められます。

「貴方はスターリン主義の誤った教義を脱しきれずに、高度成長して西欧型の先進資本制に突入している日本の資本制を、単色に悪魔の貌に仕立てようとしていますが、それはまやかしの擬装倫理以外の何ものでもありません。

 日本の先進資本主義が賃労働の週休二日制の完全実施を容認する傾向にあることは、百年まえのマルクスが見聞したら、驚喜して祝福したにちがいないほどの賃労働者の解放にほかならないのです。

 そして日本の賃労働者が週休三日制の獲得にむかうことは時間の問題であると考えます。潜在的には『現在』でもそのことは自明なのですが、ただ貴方や理念的な同類には、思考の変革が困難になっているだけです。

 雑誌『アンアン』や、その読者の消費生活のファッション便覧(マニュアル)が、祝福されこそすれ、貴方や理念的な同類のいわれのない侮蔑を蒙らなければならない根拠は、少くとも貴方(がた)の理念の範囲に少しも存在しないと考えます。」

「もちろん先進資本主義『国』の『現在』は、光明面だけに満ちているわけではありません。ましてアジアやアフリカの後進地域に、投下資本、商品輸出、技術開発として押し出されたときには、貴方が述べている『タイの青年』のように、『日本を悪魔』と呼ぶ民衆もでてくるような否定面を持つでありましょう。

 しかしこのばあいでも流出された投下資本、商品、技術、知識は、同時に後進地域の『近代化』や『現代化』に寄与していることも確かなことなのです。先進資本の後進地域への流出は、利潤獲得の運動であるに過ぎないとともに、地域にとっては高賃金化高生活化でもあるからです。」

「貴方のように高度成長の日本資本制の姿を、武器生産の輸出だけで肥大したかのように、悪魔の色に塗りつけて、東南アジアの民衆の怨恨の叫びと短絡するのは、スターリン主義が編み出した恫喝用のまやかしの倫理以外の何ものでもありません。」

「本源的な蓄積についてのマルクスの考え方から推察できることですが、彼ならば、『征服、圧制、強盗殺人』を伴わないかぎり、一般に先進資本の後進地域への流出は、その地域の階級問題とは、ほとんど無関係だと断言すると思います。」

「埴谷雄高さん。どうかしっかりして下さい。『さて、そのタイの青年が(日本は悪魔だと叫んだ —— 注)この現代思想界をリードする吉本隆明のファッションのCM画像を眺めたら、どういうでしょう。』とは一体どう狂ってしまったのですか。

 これはどんな三文小説でも造り出すことができない低俗な『妄想』的場面ではないでしょか。貴方が陥ち込んでいるのはまぎれもなく最低のスターリン主義者でさえも滅多に行使しない卑劣なデマゴギイと理念的誤用というほかないものです。」

「貴方は、『先進資本主義国の女子賃労働者の消費生活におけるファッション便覧(マニュアル)に登場している吉本』と、『アジア的』な農耕共同体の問題をかかえこんだ未発達の産業構造しかもたないアジア地域の、戦禍に疲へいした『現状』とを跳躍的に短絡させて、強引に擬似的な『倫理』を造り上げようとしています。

 もともとこの二つの場面は、結びつけて考えることが不可能であるほど次元差の隔たった層を成していることは申すまでもありません。」

「貴方はどうして、先進資本主義国の恵まれた中級または下級の女子賃労働者の、消費生活の雑誌に登場しているのんきな売文業者吉本隆明の『晴れ姿』に到達できるでしょうか。貴方は吉本に倫理を要求していますが、それはまったく逆立ちです。

 貴方はむしろタイ国家やホー・チミンやポル・ポトに、戦争や誤った理念による民衆の経済的な疲へいについて、反省を求めなくてはならないはずです。私の真意が通じますでしょうか。」


 吉本さんの「現在」に対する

 理念的態度「重層的な非決定」


 そして、吉本隆明さんは、ご自身の「現在」の「思想」が、身を置いている場所、理念的な態度について、同誌(『海燕』 1985年5月号)上で、こう明らかにされています。

「もちろん私は、貴方との論争のアリバイのために『現在』の仕事をしているのではありません。恰好をつけていえば『重層的な非決定』ともいうべき理念が、私のいまの仕事を多層化させているにすぎません。」

「『重層的な非決定』とはどういうことを意味するのでしょうか? 平たくいえば『現在』の多層的に重なった文化と観念の様態にたいして、どこかに重心を置くことを否定して、層ごとにおなじ重量で、非決定的に対応するということです。

 私はしばしばそれを『資本論』と『窓際のトットちゃん』とをおなじ水準で、まったくおなじ文体と言語で論ずべきだという云い方で述べてきました。」

「私が『アンアン』に書いたファッションについての短い文章は、柳田国男を論じている文章にくらべて力を落して書いているということは、まったく無いはずです。それは『重層的な非決定』が『現在』に対応する私の理念的な態度だからです。

 これにたいして、一見抑圧されたアジアの諸国の青年に加担するように見せかけられた、貴方のスターリン・ドクトリンは、『現在』から視える世界の諸層を、単層であるかのように短絡させて、強引に倫理の外観を造っているに過ぎません。これこそマルクスがもっとも拒否した態度でした。」

「埴谷雄高さん。

 貴方は決定的に誤解しておられます。相対的にのみいえば、民衆の生活を豊かにさせ、思想の自由を或る度合いで獲得させ、相対的にプロレタリアートの解放を実現している先進資本主義『国』もあれば、民衆を抑圧し、生活を貧困化させ、虐殺や強制収容所を実現している社会主義『国』も存在しうるのです。(貴方が注意して調べられるとアフリカの飢餓地域が、おおく社会主義の国家権力の下にあることもすぐに判るはずです)。

 また理論的にもそんなことがありうるのです。また、だからといって先進資本主義『国』に否定面が無いなどと金輪際云っているのではありませんから、どうかデマゴギイの材料にすることは、願い下げにして欲しいと存じます。

 ただ半世紀以上の相対的なせり合いのなかで、プロレタリアートの解放という課題においてすら社会主義『国』は、資本主義『国』に、比較級で敗北しているという事実を踏まえることなしに、私たちは『現在』どの方向へも向えないということだとおもいます。」

「西欧の先進資本主義『国』で取られているラジカルな理念の方向は、モダニズムとポストモダニズムの姿です。私には構造主義やポスト構造主義の思想が西欧でとっているこの方向性の方が、まやかしの少ない不可避な危機感の表明があるようにおもわれます。

 そこはもはや資本主義と社会主義の同一化が、『現前』している地続きの地域であり、差異をつくるとすれば、社会主義『国』は強制管理過剰で遅れてしまった資本主義の変種としてしかみえていないという点です。私はそこから沢山のことを学ぶことができているようにおもっています。

 ただ私の場所からみえる『現在』は(つまり先進資本主義『国』日本にあっては)、モダンやポスト・モダンに単層的に収束できるように思われないのです。ここでは『重層的な非決定』が、どうしても不可避であるようにおもわれてなりません。」


「現在」という理念の

 核心にあるもの


 そして、吉本隆明さんは、何度も何度も、同誌(『海燕』 1985年5月号)上で、埴谷雄高さんに呼びかけ、この論争の終わりを、このように締めくくっておられます。

「埴谷雄高さん。

 貴方は『アンアン』にファッションについて文章を書いたり、『コム・デ・ギャルソン』の衣服を着た写真を撮らせている私は、ホマチ仕事をしているので、本来の仕事は心的現象論や柳田国男論にあり、またマス・イメージ論は妥協的にその中間に位するものだなどと見ておられるのでしたら、まったくちがうとおもいます。

 そして貴方に仕掛けられればレーニンについての論評したりもする、いったいどこに収束点があるのか、などと誤解していただきたくないと存じます。

 これらは私のなかでは、重層的な非決定の、それぞれの層に対応するもので、どれにも重心が存在しており、また同時にどこにも重心が存在しないものとしてあります。それこそが私にとって『現在』という理念の核心にみえるものだからです。」

「埴谷雄高さん。

 貴方の『遺言的苦言』のなかには、遠心するエネルギイを失ってスターリン主義の軌道に陥ち込みつつある永久革命者の姿を垣間見る思いで、急ぎこの応答の手紙を書き記しました。

 いまひとつ気力をふりしぼって『現在』の世界の重層的非決定性に眼をむけ、まだまだ私たちに示唆を与えつづけて下さることを願いながら、筆をおきたいとおもいます。

 死は残念ながら私たちに、いつも不完全と不本意のなかでしかやって参りません。けれど生を逆に照射するものとしては、向うからこちらへの方向性をもって私たちの生が視られている、そのものを指しているとおもいます。

 そのことはまた理念の死に依りかかって眠ることは許されていない、『現在』に生存する私たちの命運を示唆するものだと考えるのです。 (了)」


「現在」と「永遠」

 どちらに比重を置くか


 以上が、「埴谷VS吉本論争」と呼ばれるものの、概(おおむ)ねの顛末(てんまつ)です。埴谷雄高さん、吉本隆明さん、両氏の主張を、かなり詳細に記載させていただきました。そうすることで、これが、単なる「ケンカ」などではなく、双方の「思想の違い」が浮き彫りとなり、私たちが耳を傾けるべき「思想論争」にほかならない、ということを知っていただくことができると思ったからです。

 また、この「思想論争」は、両氏の「思想」をよく知る上で、重要な論点を含んでいると思います。見方によれば、両氏の「思想」、その社会観、政治観、そして文学観などを知る上で、この上ない資料を提供している、ともいえましょう。

 両氏の個々の著作を読み込むのは、その数からしても、なかなか大変な作業です。質的にも、量的にも、そうです。その点、この「思想論争」を一読すれば、大ざっぱではありますが、両氏の「思想」についての俯瞰(ふかん)図のようなものが手に入ります。

 埴谷雄高さん、吉本隆明さん、両氏共、戦後の思想界、文学界を代表する「両巨頭」です。戦後の思想界、文学界について語ろうとすれば、両氏の存在は欠かせません。さらに、また、この両氏に加えて、小林秀雄氏の名前を挙げれば、思想界、文学界の「三巨頭」ということになるでしょう。

 でも、こうもいえます。逆に、別の見方をすれば、今の思想界、文学界には、取り上げるべきほどの思想家、文学者が見当たらない、ともいえます。「巨頭」と呼ばれるほどの人物が存在しないのです。魅力と影響力を備えたカリスマ的人物が、見当たらないのです。もっとも、そういう時代情況だ、ということなのかもしれませんが。

 さて、この「埴谷VS吉本論争」についてです。私は、両氏にお会いしていますし、両氏の著作をかなり熱心に読んできたつもりです。そうした経験に照らして、私がいえることがあるとすれば、両氏には、それぞれ、違った「魅力」があり、違った「深さ」がある、ということです。

 ですから、この「埴谷VS吉本論争」を改めて眺めてみても、どちらが「正しい」か、どちらが「間違い」か、などと速断する、判断するつもりはありません。また、そういう即断、判断の仕方は、やりたくありません。

 埴谷雄高さんは、終生、挑まれた、未完の小説『死霊』の執筆が物語るように、「究極の一冊」を定著すべく、全力を注がれました。「永遠」を目指す、という方向性の中で、新たな文学の創造に取り組まれました。これは、まぎれもなく、芸術家の仕事です。

 一方の吉本隆明さんは、「戦後思想界をリードする存在」「戦後思想界の巨人」とも目された存在です。何よりも、「思想」の構築を重視されました。

 マルクスから強い影響を受けつつも、「下部構造(経済構造)が上部構造(精神構造)を規定する」という、いわゆるマルクス主義のテーゼ通りにはなっていない先進資本主義国の「現在」を、「重層的」に捉えることで、独自の「思想」を築こうとされました。

 日本国もそうですが、今、私たちは先進資本主義社会という新たな段階に入っています。そうした社会の中で、私たち生きています。先進資本主義社会というのは、生産が主であるかつての資本主義社会ではなく、消費が主体となる、消費中心の消費社会のことです。この消費社会では、「下部構造(経済構造)」が豊かになりつつあるにもかかわらず、それに伴って、「上部構造(精神構造)」が豊かになりつつある、とは必ずしもいえない、不思議かつ、ある意味、不気味な様相を呈しつつあります。

 かつて、神戸で起きた「酒鬼薔薇(さかきばら)」事件などもそうでしたが、世間的には不可解な「異常」と見なされる犯罪が起きたりもしています。介護施設での猟奇的な殺人事件などもそうです。

 社会全体に蔓延(まんえん)しているような、どこか落ち着かない雰囲気。精神的に不安定で、どこか漂うような雰囲気。かつて経験したことがない、独特の浮遊感のようなものが、現代の日本の社会には、確かにあるかのように見受けられます。

「下部構造(経済構造)」が豊かになりつつあるのに、それに見合うほど、「上部構造(精神構造)」が満たされていないのです。この社会で暮らす人たちは、必ずしも、幸福になっている、とはいえないと思います。

 それは、マルクスが分析した、当時の生産中心の資本主義社会とは異なる位相の、高度な資本主義社会に入っていることの証左ともいえましょう。マルクスが予想しなかった、また予想しえなかった、「現在」が出現しているのです。

 吉本隆明さんは、この「現在」を読み解こうとされているわけです。吉本隆明さんは、自らの理念的な態度として、「重層的非決定」ということをおっしゃっています。それは、「現在」に対する、吉本隆明さんの思想家としての態度にほかなりません。

 こういう言い方も、できるかもしれませんん。吉本隆明さんは「現在」に向き合い、その一方、埴谷雄高さんは「永遠」に向き合っておられる、と。

 お二人は、向き合っておられる方向、尺度が違うのです。同じ文学者でありながら、吉本隆明さんは「思想」、埴谷雄高さんは「芸術」、というふうに。

 向いておられる方向、尺度 が違う、言葉を換えれば、「重心」をどこに置くのかという、その「重心」の置き方が、お二人は、それぞれ違っておられるのです。 

 そのことを、さておいた上で、どちらが「正しい」、どちらが「間違い」、といっても始まりません。簡単に済ますことなど、できるはずもありません。やはり、そこには、「資質の違い」「個性の違い」というものも、当然、おありになるでしょう。

 違いは違いとして、私たちは、いずれの方からも、指針を受け取ることができます。学ぶことができます。このことを、今後も改めて、考えていきたいと思います。


 
 
 

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『未来のアトム』(田近伸和著 アスコム)
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