埴谷雄高さんのこと
- Nobukazu Tajika
- 2024年6月21日
- 読了時間: 38分
更新日:1月30日
◼︎埴谷雄高氏
『意識 革命 宇宙
埴谷雄高・吉本隆明対談』より
河出書房新社/ 編集部撮影
1975年初版発行
「井の頭公園」近くの埴谷宅と
珈琲店「モカ」
東京都武蔵野市吉祥寺にある埴谷雄高(はにや・ゆたか)さんのご自宅をお訪ねしたのは、私が20代後半の頃です。なにしろ40年以上も前のことなので、記憶が曖昧(あいまい)なため、埴谷さんのご自宅がどこにあったのか、正確には覚えていませんが、確か、吉祥寺駅の東側、「井の頭公園」の近くにお住まいだったと思います。
平屋建ての家屋。想像していたよりも、どちらかといえば、こじんまりとした、簡素な感じのご自宅でした。「埴谷雄高」というペンネームと、「般若豊(はんにゃ・ゆたか)」というご本名の、二つの表札が掛かっていたように記憶しています。
ちなみに、「井の頭公園」の近くには、自家焙煎(ばいせん)の珈琲店「モカ」という、マニアの間では非常に有名な店がありました。店主の名前は、標交紀(しめぎ・ゆきとし)さんといい、共に俳優志望だった奥様とお二人で、お店を経営されていました。
標さんは、おいしいコーヒーを求め、世界各地を旅されるほど、コーヒー道に命を賭けているといったご様子でした。『珈琲の旅』(みづほ書房)という本も出されたほどです。
標さんは、ちょっと俳優の平幹二郎に似た風貌をされており、どこかニヒルな感じがするところもありました。映画入りを目指されていたことをあとで知り、「なるほど」とうなずいたものです。奥様も、元女優を目指されていたようで、ご夫婦そろって、映画人的な雰囲気をお持ちでした。
店の外観、内観、共に、マニア向けといっていいような空気感、雰囲気がありました。店内の椅子やテーブル、壁掛けの装飾など、インテリアも趣味のよさが光るものばかりで、至る所に、ご夫婦のセンスのよさが漂っていました。
なにしろ、自家焙煎したコーヒーがおいしい。深煎(ふかい)りで、素晴らしい香りがする、コクのあるコーヒーでした。日本一、いや、もしかすると、世界一のコーヒーかもしれないな、と。そんなふうにも思いました。
私は、20代後半から50歳に至るまで、東京都武蔵野市に住んでいましたので、珈琲店「モカ」の存在を知ってからというもの、ほかのコーヒーはもう飲めないというくらい、このお店の虜(とりこ)になってしまいました。
珈琲店「モカ」では、自家焙煎したコーヒー豆を販売するだけでなく、店内でコーヒーを飲むこともできました。こちらから質問すると、標さんが、自らのコーヒー知識について、いろいろお話をしてくださり、目の前で、自らコーヒーを煎(い)れてくださるのです。
私は足繁く、このお店に通いましたが、そうした折り、標さんから、「埴谷雄高さんも、実は、しばしばこのお店に来られるんですよ」ということをうかがいました。標さんのお話ぶりからすると、埴谷さんも、このお店の「常連の一人」だったご様子でした。「井の頭公園」などを散歩がてら、しばしばお店に立ち寄られた、埴谷雄高さんにとっては、いうなれば、散歩コースのようなものだったのかもしれません。
いかにもマニア好みの “ 通のお店 ” に、埴谷さんが出入りされていたというのは、“ マニア好みの文学 ” といってもよいかもしれない、「孤高の文学」に挑んでおられた埴谷さんらしいお話です。
埴谷雄高さんについて何か書こうとすると、勢い、私の中では、この珈琲店「モカ」とセットで記憶が甦(よみがえ)ってくる、というところがあります。余人の追随を許さない珈琲店に、余人の追随を許さない文学者が出入りしていたという偶然、いや、偶然などではなく、必然だったのかもしれませんが。
埴谷雄高VS吉本隆明
「黙示録対談」を持ちかける
私が埴谷雄高さんのご自宅をお訪ねしたのは、埴谷さんとお会いして、私の内なる出版企画を告げ、埴谷さんに同意していただけないでしょうか、とお願いするためでした。私は、当時、20代後半。日経マグロウヒル社(現、日経BP社)という会社が出していた「日経アーキテクチュア」という建築雑誌の記者を辞めたあとでした。今後、編集者的な仕事をしていくか、物書きとしてやっていくか、まだ決めかねていた時期です。
しかし、いずれにしろ、内なる出版企画というものが、その時、私にはすでに芽生えていました。それは、埴谷雄高さんと吉本隆明さんとの対談企画です。対談本の題名は、すでに決めていて、題名は『黙示録対談』というものでした。
「黙示録」は、いうまでもなく、『聖書』のヨハネの「黙示録」からきています。しかし、必ずしも『聖書』にこだわっていたわけではありません。埴谷さんの言説や本で書いておられることなどから、私には、世紀末的予感のようなもの、どこか予言めいた「黙示録」のそれと通じるものがあるように感じていたのです。
また、吉本隆明さんはといえば、『聖書』を熱心に読んでおられることも私は知っていましたし、埴谷さんとは思想的な共通点が多いということも知っていました。戦後思想界という大きな括(くくり)でいえば、埴谷雄高さんと吉本隆明さんは、「両巨頭」にほかなりませんでした。
私の学生時代の読書経験の中では、国内では、小林秀雄氏、埴谷雄高さん、吉本隆明さんが、間違いなく、「三巨頭」だったのです。とはいえ、お三方の思想は、もちろん、それぞれ違いました。
保守の論客として有名だった小林秀雄氏。それに比べ、埴谷雄高さんと吉本隆明さんは左側陣営の論客として有名でした。対談していただくなら、埴谷さんと吉本さんにお願いしたい、そのほうが話は通りやすいだろう、しかも、お二人は親交がおありのようでしたし、互いが互いを尊敬し合っておられるような間柄でした。
そんな思いから、先ずは、吉本隆明さんより歳上の埴谷雄高さんに、『黙示録対談』という出版企画を持ちかけさせていただいたという次第です。
埴谷さんの答えは肯定的なものでした。今すぐ、やろうというわけではありませんでしたが、私が持ち込んだ企画については、「温めておきなさい」とおっしゃっていただきました。それは、いずれやってみてもいいかな、というニュアンスでした。
埴谷さん宅では、私は応接室で埴谷さんとお話することになったわけですが、どんな会話が交わされたのか、40年以上も前のことなので、あまりよく覚えていません。
ただ、埴谷さんのことを「埴谷先生」とお呼びすると、埴谷さんは、「私は先生ではないので、先生と呼ぶ必要はありません。埴谷でいいです」とおっしゃられたことや、キルケゴールのことを熱心に語っておられたということだけは、よく覚えています。
これは、最近知ったことですが、埴谷雄高という人は、実に熱情的にお話をされることがある人のようで、インターネットの辞書「ウィキペディア」によると、「話をするときに手に持っているもので机やテーブルを叩く癖があり、メガネを200個以上も壊したという」、そんな逸話(いつわ)が残されているのだそうです。
しかし、私はそうした場面には出食わしませんでした。埴谷宅では、埴谷さんは、終始、ご機嫌(きげん)よさそうに、笑顔を交え、手ぶりゆたかに、穏やかに話をされていました。もっとも、奥様を亡くされたあとの、独り住まいの孤独感のようなものは、応接室全体にそれなりに漂っていたとは思います。
埴谷さんは、ご著作の中で、奥様のことについて言及されておられます。妊娠した奥様に、3回ほど堕胎(だたい)させたとのこと。それも、埴谷さんの思想性の結末だったのかもしれません。
ちなみに、私は埴谷宅をお訪ねするに際しては、埴谷さんが好んでおられたというハンガリー産のトカイワインを持参したように記憶しています。これも、もしかすると、埴谷さんが、ご機嫌よくお話をしてくださった原因の一つだったかもしれません。埴谷さんは、かなりの酒豪で、晩年になっても、しばしば都内で飲み歩いておられたとか。
さて、埴谷宅を辞したあと、私は、後日、吉本隆明さん宅に電話しました。埴谷雄高さんとの対談企画『黙示録対談』のことをお伝えするためです。埴谷さんが、この対談企画に前向きでいらっしゃる旨をお伝えすると、電話口に出られた吉本さんは、「ほう、埴谷さんが」とおっしゃり、吉本さんのほうも、まんざらじゃない、といったご様子でした。
電話口とはいえ、吉本さんとお話したのは、これが初めてです。ただし、私はそれ以前に、吉本さんのご尊顔や、お姿は拝見したことがあります。埴谷さんの形而上学的小説『死霊』の第五章の完成を記念して、吉本さんが、1976年(昭和51年)に、私の母校である東北大学の川内(かわうち)校舎というところに講演しに来られたのです。
当時、私は学生で、校舎の末席から、吉本さんの講演を拝聴していました。内容は、ほとんど覚えていませんが、『死霊(しれい)』の第五章のことや、『死霊』の文学的意味合いなどについて語っておられたように思います。
対談企画は幻に
「ボケています」の年賀状
しかし、結論からいえば、残念ながら、この対談企画は幻に終わってしまいました。私は埴谷さんから「温めておきなさい」といわれていたので、文字通り、心の内でこの対談企画を温め、いずれはと思い、それとなく機会をうかがっていました。
そこで改めて、対談企画のことなどをしたためたお手紙を埴谷さんにお出ししました。それに対し、埴谷さんから実に丁寧(ていねい)な、直筆のおハガキが届きました。今も手元に、そのハガキはあります。ハガキに押された武蔵野郵便局の日付けを見ると、1984年(昭和59年)9月14日とあります。
残念ながら、埴谷さんから届いたハガキは、「対談は取り止めにします」というものでした。ハガキには、概(おおむ)ね、以下のようなことが書かれていました。
「丁寧な手紙をいただきました。『お喋りの一切』がイヤになり、インタビュー、対談、座談会の類はやらぬ方針にしました。だから、対談企画は取り止めにします。吉本君へも、その旨、通知しておいて欲しい。『お喋りの一切』をやめる理由は、本年の『文藝』正月号に『お喋りの終焉』というエッセイを書いて説明しています。一讀して下さい。」
ちなみに、埴谷さんには、その年の暮れに年賀状をお送りしました。埴谷さんからも、私のもとへ年賀状が送られてきました。「賀正 1985年」という印刷された文字の左側の空白部分に、「どんどんボケています。」と、埴谷さん直筆の文字が添えられていました。
「ボケ」については、もちろん、埴谷さんはわざと自嘲気味にそう書いておられるわけですが、埴谷さんには、こんな記述も見られます。1985年(昭和60年)発行の「海燕(かいえん)」という文芸雑誌(福武書店)の2月号に、「政治と文学と ———吉本隆明への手紙」という題名で発表された、埴谷雄高さんから吉本隆明さんへの公開質問状です。
「私は、いま、まぎれもなく、『ボケ』つつあります。殊に小川国夫と映画について対談し、出来上がった本をみたとき、『思い違い』があるのにうんざりし、昭和五十九年一月号の『文藝』に『お喋りの終焉』という文章を書き、『二つの同時代史』や『もっと暗黒を!』以後、これから対談、座談会、インターヴューの類は、いっさいやらないと述べています。
そうした『ボケ』の私を『情況への発言』における対話の『主』たるあなたは、『間違いや記憶ボケがない方が不自然だし、正確無比でなくちゃならん理屈もないやね。』といたわってくれていますので、私も元気をだして、こうした瑣末な部分からはじめます。」
私が、埴谷さんから最初のおハガキをいただいたのが1984年(昭和59年)9月ですから、その時からまだ半年も経たない時期に、埴谷さんから吉本さんへの公開質問状が発表されたことになります。
これがきっかけで、、いわゆる「埴谷VS吉本論争」なるものが展開され、お二人は、この先、袂(たもと)を分かつことになります。私が提案した、埴谷雄高さんと吉本隆明さんとの『黙示録対談』が、幻に終わったことは、なんとなく、この先ゆきを暗示していた感がしないでもありません。
なお、この「埴谷VS吉本論争」については、私の別のブログ記事で、改めて詳しくお伝えしたいと思います。
ドストエフスキー『悪霊』
カント『純粋理性批判』を超えて
埴谷雄高さんは、1909年(明治42年)、台湾のお生まれです。そして、1997年(平成9年)、東京都武蔵野市吉祥寺のご自宅で、脳梗塞のため、87歳でお亡くなりになったとのことです。
埴谷雄高さんは、いうまでもなく、戦後の文学界を代表される作家のお一人です。お亡くなりになるまで、約50年間、ずっと書き続けてこられた未完の大作『死霊(しれい)』の作者として、つとに有名です。
『死霊』は、いうまでもなく、ドストエフスキーの小説『悪霊(あくりょう)』から触発され、『悪霊』を踏まえ、『悪霊』を超えることを目指した小説です。
埴谷さんは、常々、自分の中には三つの部屋がある、と述べておられました。一つめは、「意識」の部屋、二つ目は、「革命」の部屋、三つ目は、「宇宙」の部屋、です。そして、「白紙に向かって書く作業は、新しい宇宙をつくることを強いられた神の苦慮と同じだ」、とも述べておられました。埴谷雄高さんと吉本隆明さんとの対談本『意識 革命 宇宙』(河出書房新社 1975年初版)でも、そのことを改めて述べておられます。
埴谷さんにとって、『死霊』という小説を書く作業は、もちろん、「白紙に向かって書く作業」以外の何物でもなく、そしてそれは、「新しい宇宙をつくることを強いられた神の苦慮と同じだ」ったのです。それはまた、埴谷さん的にいえば、ドストエフスキーがそこまではなしえなかった「存在の革命」に挑戦することでもあったのです。
『死霊』が「戦後文学の中で最も難解な小説」といわれ、「20世紀最大の実験小説」ともいわれるゆえんです。
埴谷さんは、ご自身の『死霊』のことを、座談会だったか、鼎談(ていだん)だったか、どこかで、茶化し気味に、「難解ホークス」と語ったりしておられました。昔、日本プロ野球のパ・リーグの球団の一つに、「南海ホークス」という球団があったのです。捕手の野村克哉さんなどが所属してい球団です。それの語呂合わせのような冗談です。
また、ご自身のことを、これまた茶化し気味に、「何を言うたか?」と呼んだりもしておられました。これまた、ご自身のペンネームである「埴谷雄高(はにや・ゆたか)」、その発音の語呂合わせのような冗談です。
ちなみに、埴谷雄高さんの本名は、先程も述べましたように、般若豊(はんにゃ・ゆたか)さんです。本籍は、福島県相馬郡小高町です。
埴谷雄高さんは、1931年(昭和6年)に日本共産党に入党されています。そして、1932年(昭和7年)、東京の小石川原町の同志宅を訪ねたところ、張り込みの警官に逮捕されました。50日余りを警視庁富坂署の留置場で過ごし、その後、不敬罪および治安維持法違反ということで起訴され、豊玉刑務所で未決囚として、独房で過ごされたりもしています。
この独房の中で、カントの『純粋理性批判』を読み、衝撃的な読書体験をされた話は有名です。カントの『純粋理性批判』は、「理性の限界」を説く哲学書です。人間の理性はどこまで達しえるのか、そして、どこまでしか達しえないのか、その「理性の限界」を哲学的に考察した、ある意味で「究極の書物」です。
埴谷さんは、カントの『純粋理性批判』に、魂を揺さぶられるほどの衝撃を受けた、震撼された、そのことを、ご自身の著書の中で書いておられます。そして、そのことによって、その後の作家としての歩み、決意が定まっていかれたのだと思います。
カントの『純粋理性批判』をいかに乗り超えるか、カントが人間の理性の限界を示したこと、人間の理性はもうそれ以上先には進めない、と断じたこと。それを、どう乗り超えるかが、埴谷さんの作家としての最大のモチーフになったのだと思います。
埴谷さんは、小説ならばそれが可能だ、小説ならばそれができる、というふうに思考を進められたのだと思います。たとえ、人間の理性には限界があったとしても、人間には想像力というものがある。その想像力を使えば、カントが『純粋理性批判』で示した「理性の限界」を乗り超えることができる、できるはずだ、と考えられたのだと思います。埴谷さんの『死霊』も、その想像力に基づく産物であり、作品である、といってよいでしょう。
ちなみに、埴谷雄高さんとは違う意味合いで、小林秀雄氏もまた、CD化された講演の中で、人間の「想像力」の大切さ、重要性を、学生相手に熱心に語っておられました。
小林氏は、「想像力の中には、理性も感性も、すべて含まれる。だから、諸君は想像力を磨く訓練をしなくちゃいけない」といったことを、情熱を込めて語っておられました。
想像力は、「創造」という営みに欠かせない、というより、不可欠でしょう。芸術家が生み出す作品、創造する作品は、おしなべて、想像力の産物の賜物(たまもの)といって過言ではありません。想像力がなければ、芸術作品など、生まれようがありません。
60年安保世代には
「神様のような存在」
インターネットの辞書「ウィキペデア」によると、ジャーナリストの立花隆氏は著書の中で、埴谷雄高さんについて、こう述べているそうです。
「60年安保世代の大学生にとって埴谷は神様のような存在だった。そのため初対面時には非常に緊張した」とのことです。
また、「ウィキペデア」によると、作家の三島由紀夫氏はこう評していたそうです。
「 埴谷雄高は戦後の日本の夜を完全に支配した」、と。
吉本隆明さんは、どうだったかというと、「ウィキペデア」はこう解説しています。
「吉本隆明は、埴谷の文学作品と政治理論の双方を非常に高く評価し、『死霊』第五章を、『死というものを瞬間的にでなく、段階的・思索的にとらえた日本近代文学史上はじめての作品』とし、またその政治理論についても、『革命家は行動を起こさなければいけないという観念論ではなく、未来のビジョンを示せばよいということを示したコペルニクス的転回である』」、と。
しかし、一方、保守側から見ると、評価はガラリと変わります。やはり、また、「ウィキペデア」によりますが、戦後、保守の論客の一人と目された江藤淳氏は、埴谷さんの『死霊』を読んだ感想として、こう述べたとのことです。
「 『読んでいてところどころ眠くなる作品』として、埴谷の存在を『昭和10年代左翼の延長』としてとらえるべき、と否定的見解を示している」とのことです。
江藤淳氏が、「読んでいてところどころ眠くなる作品」と評したことは、それなりにわからないでもありません。
私は、学生時代に、埴谷雄高さんの 『姿なき司祭 ——ソ聯・東欧紀行』(河出書房新社 1970年発行)という紀行本を読みました。埴谷さんが、作家の辻邦生氏からの誘いを受けて、初めてヨーロッパ諸国を巡る旅に出た時の紀行文です。
その時、本を読みながら、脳のどこかに局所麻酔を打たれたような、一種、脳の麻痺状態のような状態になったことを覚えています。埴谷さん独特の長いセンテンスの文章、思考がどこで終わるのかわからないような埴谷さん独特の思索の持続力、耐久力、それは、確かに「眠くなる」ように、読者を誘い込みます。
しかし、それは、退屈だから、「眠くなる」わけではありません。埴谷さんの思索の持続力、耐久力に、ついていけないだけなのです。耐久マラソンに参加して、走っている途中、だんだん息が続かなくなる、そのため、いわば酸欠状態のような状態になって、意識を失ってしまう、という感じなのです。脳の感覚中枢に、見えない麻酔針が打ち込まれ、感覚中枢が麻痺してきて、その結果、「眠くなる」といった感覚なのです。
私は、埴谷さんの『姿なき司祭』を読み終えたあと、眩暈(げんうん)される思いがしました。こんな紀行文を書く作家は、ほかにいない、やはり、埴谷雄高という作家は類を見ない稀有(けう)な作家だと思いました。
「近代文学」の座談会に
小林秀雄氏を
保守の論客の一人と目された江藤淳氏のコメントを紹介しましたから、保守の論客中の論客である小林秀雄氏のことも、ここで述べておきましょう。戦後間もなく行われた座談会の場で、埴谷雄高さんは、小林秀雄氏に、実はお会いになっておられるのです。
戦後直後の昭和20年(1945年)、「近代文学」という文芸雑誌が創刊されました。その「近代文学」という文芸雑誌の創刊に、埴谷雄高さんは関わっておられたわけですが、その雑誌が企画した座談会に、小林秀雄氏は、早々と呼ばれているのです。
ちなみに、当時、「近代文学」同人として、同誌の創刊に関わっのは、以下の人たちです。発起の書面に記載されている名前順に記すと、小田切秀雄、荒正人、佐々木基一、埴谷雄高、平野謙、本多秋五、山室静、といった人たちです。
埴谷雄高さんの著書(『埴谷雄高作品集 文学論文集4』 河出書房新社 1971年初版発行)には、「近代文学」創刊に際しての経緯が詳しく書かれていますが、同人たちの幾人かについて、ご自身のことも含め、埴谷さんは面白おかしく、こう書いておられます。
「古代人——本多秋五、中世人——平野謙、現代人——荒正人、未来人——埴谷雄高」、と。ご自身で、ご自身のことを「未来人」と評されておられるのは、いかにも埴谷さんらしい評言です。
さて、江藤淳氏の『小林秀雄』(講談社文庫 昭和48年発行)によると、「近代文学」が座談会(注:座談会「コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」)に小林秀雄氏を呼んだ理由として、こんなモチーフがあったそうです。
「本多秋五の『物語戦後文学史』は、この座談会計画の意図を、〈出発当初の『近代文学』同人は−−−−『蔵原惟人と小林秀雄を重ねてアウフヘーベンする』方向を望んでた。−−−−だから、蔵原惟人と小林秀雄の実物に、直接ブツかつてみることは、『近代文学』同人にとって、試金石でもあり、跳躍板でもあったわけである〉と語っている。(原文のママ)」
蔵原惟人氏はプロレタリア文学、小林秀雄氏はいうなれば “ 芸術派文学 ”。対極にあると思われていたお二方を「アウフヘーベンする」、つまり、止揚(しよう)する、というわけです。ですから、「近代文学」同人たちは、両者を超えて、さらなる高みの次元を目指そうとしていた、ということになります。
埴谷雄高さんの著書『影絵の世界』(河出書房新社 昭和52年発行)によると、小林秀雄氏との交渉役にあたったのは、「近代文学」の同人の一人、平野謙氏であるとのことです。埴谷さんは、同書の中でこう書いておられます。
「鎌倉の小林秀雄の許へそのとき交渉に赴いたのは平野謙であって、私達もまだ知らなかったことであったが、平野謙は小林秀雄の遠い親戚にあたるとのことで、平野君の頼みならでるよ、と小林秀雄もまた極めてあっさり引きうけてくれたのであった。」
埴谷さんは、同書のなかで、さらに当時のことを、こう振り返っておられます。
「 そのとき、正月でもあるし、お客が小林さんだから是非とも酒の用意をしようじゃないかという酒ののめぬものが多い『近代文学』同人にしてはできすぎた相談が私達のあいだでまとまり、銚子、杯、皿、料理、日本酒といったふうに細かにわけた分担を同人各自が引きうけたのであった。(原文のママ)」
小林論法の早業に
「いかれて」しまう
さて、いよいよ小林秀雄氏の登場となり、「近代文学」の座談会が開かれます。この経緯、結末について、埴谷雄高さんは、著書『影絵の世界』の中でこう書いておられます。
「この小林座談会の内容はあとで小林秀雄があっと驚くほど大幅に手をいれたので、座談会とはこうするものだという最初の記憶すべき啓示を同人すべてが受けとったのであるが、頭の廻転が早く僅か数語で問題の核心をすっかり射抜いてしまう小林論法の早業に同人達はみな『いかれて』しまい、その座談会後、平野謙を除く本多、荒、佐々木、小田切、私の五人が神田文化学院二階にすでにできていた無人の暗い事務所へまでわざわざ帰り、本多秋五命名するところの『残念会』を開いて『総反省』をおこなったのであった。その後数回にわたって本多秋五が小林秀雄論を『近代文学』に克明に書きつつづけたことは、ここに発端している。」
小林秀雄氏の逸話(いつわ)はいろいろありますが、埴谷さんが、「頭の廻転が早く僅か数語で問題の核心をすっかり射抜いてしまう小林論法の早業に同人達はみな『いかれて』しまい」と書いておられることは、まさに「論客中の論客」である小林秀雄氏の、在りし日を彷彿(ほうふつ)とさせるものです。
また、いかにもユーモアまじりの書き方をしておられる埴谷雄高さんの独特な文章——長いセンテンスで、思索が途切れない、その文章センスにも感心させられます。こうした文章センスは、やはり、埴谷さん独自のものです。ユーモアを交えることのできる稀有(けう)な、埴谷さんならではの思索者の文章、それが、こんな、ある意味、気軽な回想録のような文章にも垣間見られるというわけです。
小林秀雄氏、吉本隆明さん、それぞれに、独自な文章の持ち主です。それぞれに、文章の達人ですが、「ユーモア交じり」の文章という独特な文章という点では、埴谷雄高さんの文章には特筆すべきものがあるように思います。
お写真から拝察するに、特にお若い頃は、ダンディで、ワインやダンスなどがお似合いといった感がしなくもない埴谷雄高さん。「男前」の風貌が、こうした余裕というか、ユーモアを奏(かな)でるセンスというものに、自ずと繋(つな)がっているのでしょうか。
まあ、文章の違いは、結局は、「資質の違い」「個性の違い」というところに由来する、そういってしまえば、まさに、そうなのでしょうが。
ちなみに、ついでに申し上げておきますと、小林秀雄氏と埴谷雄高さんとの間では、こんなやりとりもあったようです。
私はどこかで読んだ記憶がありますが、埴谷さんは、小林氏のランボオの詩の翻訳に触れ、小林氏に対して、「名訳だと思います」と、ご自分の感想を述べておられたと思います。それに対し、小林氏は「ちっとも名訳なんかじゃないよ」と述べられた上で、自分の翻訳には、「誤訳」がいろいろあるだろう、ということを示唆されていたように思います。
なにしろ、ご自身が訳された『ランボオ詩集』について、どこかで、小林氏は、「誤訳は水泡のごとくあるであろう」と述べておられた——私はそのように記憶しています。それは、小林氏が、必ずしも、謙遜からのみおっしゃたことではないと思います。
しかしながら、その小林氏の回答に対して、埴谷さんは、「僕がいっているのは『誤訳』とかの問題ではなく、訳者独自の哲学、美意識のようなものが、訳に反映しているのではないか」、という趣旨のことを、疑問として、呈しておられたと思います。
小林氏は「それは、ありうること。ランボオの詩の翻訳を、僕はあくまで自分の勉強のためにやったに過ぎない」といったことを、確か、述べておられました。外国語の詩を日本語に移し換えるに際し、訳者の影が反映するのは、ある意味、当然といえば、当然ですが。
こうしたやりとりを、今は、私は自分の記憶だけを頼りに書いていますので、言葉は、もとより正確ではありません。また、もしかすると、どこか、記憶間違いがあるかもしれません。ただ、今になって、出典を探そうとしても、出典がよく思い出せず、出典を探ろうとすると、なかなか面倒な作業になりそうです。
ですから、今のところ、記憶だけを頼りに書いています。その点は、なにとぞ、ご容赦ください。でも、概(おおむ)ね、こうした会話が交わされたと記憶しています。
小林氏ご自身は、訳書『ランボオ詩集』の「後記 I 」で、こう書いておられます。
「『地獄の季節』のなかの『言葉の錬金術』といふ章で、『俺は沈默を書き、夜を書き、描き出す術もないものも控へたのだ。俺は様々な眩暈を定著した』と言つてゐる様に、ランボオは、フランスの詩人で、最も難解な獨得なスタイルで表現した詩人の一人です。
従って飜譯には、非常な無理が伴ひました。彼のスタイルは初期の詩から『飾晝』、それから『地獄の季節』と非常な變り方をしてゐますが、雑多な異質の映像が、殆ど筋金入りとでも形容したい様な腕力で強引に連結されて、どの詩も男らしい強い効果を出してゐる點は一貫して變りません。
どうして磨かれない寶石の様に生硬な映像を掻き集めて、あの様な光を創り上げたか。その邊の秘密は、残念乍ら、僕の譯文には移し得てゐまいと思ひます。(原文のママ)」(『ランボオ詩集』 東京創元社 昭和四十七年初版発行)
ちなみに、座談会が終わったあと、小林氏は、「あの連中は、勉強している」と感心されていたそうです。「あの連中」とは、座談会に同席していた「近代文学」同人の人たちのことです。この小林氏のコメントも、私はどこかで読んだ記憶があります。
小林秀雄氏の座談会での啖呵
江藤淳氏の著書『小林秀雄』によれば、座談会「コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」が行われたのは、戦後、間もない、昭和21年(1946年)1月12日であるとのことです。この座談会で、小林氏は先の戦争について、いかにも小林氏らしいセリフで、こう断じておられます。
「 僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしてゐない。大事変が終った時には、必ず若しかくかくだつたら事変は起らなかつたらう。事変はこんな風にはならなかつたらうという議論が起る。必然といふものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。
この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起つたか、それさへなければ起らなかつたか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもつと恐ろしいものと考えている。僕は無智だから反省なぞしない。悧巧な奴はたんと反省してみるがいいぢやないか。(原文のママ)」(「近代文学」 昭和21年2月号)
小林氏は「戦争について」(「改造」 昭和12年11月号)という自らの文章の中で、こう書いておられます。
「目的の為に必ずしも手段を選ばない、とは政治に不可欠の理論である。戦争がどんなに拙劣な手段であらうと目的は手段を救ふと考へねばならぬ。だが、この政治の理論を、文学に応用する事は断じて出来ない。文学者の仕事は、例へば大工が家を建てる様なものだ。
手段が拙劣なら目的などナンセンスである。文学者たる限り学者は徹底した平和主義者である他はない、従って戦争といふ形で政治の理論が誇示された時に矛盾を感じるのは当たり前な事。僕はこの矛盾を頭のなかで片附けようとは思はない。
誰が人生を矛盾なしに生きようなどといふお目出度い希望を持つものか。同胞の為に死なねばならぬ時が来たら潔く死ぬだらう。僕はただの人間だ。聖者でもなければ預言者でもない。(原文のママ)」
そうした覚悟を述べておられた小林氏ですが、いざ戦争が起きると、戦地に赴(おもむ)けという召集令状は、小林氏のもとへは届きませんでした。「お国のために戦う」という覚悟を持っておられた小林氏でしたが、戦争に行くということは実際にはなく、したがって、戦争によって命を落とされるということもありませんでした。
小林氏が、そのことを不本意だったと思われたのかどうか。それは、わかりませんが、小林氏が、その後、残された優れた業績を思えば、私たちにとっては、幸運なことだったといわざるをえません。
「また来るよ」との
小林秀雄氏の暗示的言葉
埴谷雄高さんの著書『影絵の世界』には、「近代文学」の座談会が終わったあとの様子も、割合、克明に描かれています。埴谷さんは、こう書いておられます。
「その座談会の席で一升の日本酒をほとんどひとりで飲んでしまった小林秀雄は終始思いがけぬほど機嫌がよく、座談会の最後の言葉として平野謙が、
———今日はお忙しいところをほんとうに有難うございました。
と挨拶したのに対して、
———いや、僕は忙しくないよ。忙しいのは今日だけなんだ。また来るよ。
と極めて気軽に小林秀雄は応じて終っているのである。
先程、この座談会の内容のすべてにわたって小林秀雄が大幅に手をいれ私達同人に或る種の『啓示』を与えたと記したけれども、この最後の部分はまったく実際の言葉そのままで、『また来るよ』というところだけは是非のこしておこうと平野謙がいいだし、小林座談会は、これまた記念すべきこの極めて暗示的な言葉で終っているのである。」
「『近代文学』の基本方針は、先に述べたごとく、蔵原惟人と小林秀雄の両端に跨がりながら『政治と文学』の新しい次元のジン・テーゼへ一歩踏みでることにあったが、その後、向う側の姿勢、現実政治の引廻しのかたくなな事態に遭って、蔵原座談会で、蔵原惟人の名は神のごときものがあったと述べた本多秋五が十九年後の新日本文学会十一回大会で、『この人たちは、現在の共産党がやっていることを、何と御覧になっているか、私はそれをききたい。(沈黙)いま、ここには、蔵原さんも、中野さんも、いらっしゃいませんが、そういう人たちを、ぼくは、実は、この大会の期間を通じて、まともに顔が見たくない。いままで、ながいこと、尊敬してきた人たちであり、信頼してきた人たちであるけれども、もうぼくは、顔を、まったく見たくない。(沈黙)』と述べねばならなくなった歴史の流れを思えば、『また来るよ』といった小林秀雄の最後の言葉はまことに暗示的で、私達のその後の『芸術主義』の内容は、純化につぐ『より純化』という微妙な機微を含んだ結晶作用の純粋化を重ねに重ねて、こちら側の『近代文学』における『政治と文学』のかたちは、とうていやってこない政治と文学の一致の『一種渇望的な一致』という純粋理想の結晶の透明なかたちとして各人の胸裡に生きつづけることになったといわねばならないのである。」
江藤淳氏の著書『小林秀雄』
埴谷雄高さんは、江藤淳氏の著書『小林秀雄』について論評されています。これは、江藤淳氏の著書への論評であると同時に、小林秀雄氏への論評ともなっており、埴谷さんの「小林秀雄論」にもなっています。
埴谷さんは、論評『小林秀雄』(『埴谷雄高作品集 戦後文学論集II 8』 河出書房新社 1978年発行)の中で、こう述べておられます。(以下は、すべて原文のママ)
「戦後すぐ『近代文学』で行われた座談会のあとの雑談中、小林秀雄は、平野謙が島崎藤村を論じていることを聞いて不満の面持ちを浮かべながら、批評家は一流品だけを扱うべきだといった。彼のいう一流品とは、世界における一流品のことである。
資料豊富な江藤淳の『小林秀雄』を読みはじめると、ランボウからはじまってドストエフスキイ、モツァルトに至るまで、日夜根をつめて勉強せざるを得ぬ息苦しいほど、数多くの外国人名がでてくるが、その同質保持のため、ときたま研究の経過にはいってくる一流品以外のものが、やがて敏感に捨てられるさまも、またシェストフやジイドの例としてこのなかに看取される。
この小林秀雄の努力のさまに対すると、絶えず新しい機械と技術を輸入し息つくひまもないほど数多くの直接的な模倣から出発し、研究的な分析を繰り返し、改良し、加工しているあいだに、いわばその原型的な根拠にようやく達して独自の新商品を造りだすに至ったわが国の少数の産業資本家の努力とパラレルな印象がもたらされるのである。
文学の本質についてのみ語ろうとする小林秀雄が自己の上半身に血肉化し得たその『近代』と、プロレタリヤ文学を含むところの私小説の職人性の『前近代』とを比べると、その落差は確かに大きなものに違いない。」
「 ところで、前記座談会で小林秀雄はもう一つの秘密をも私達にもたらすことになった。彼の速記部分は原型をとどめぬほど改変されていて、論理的思考を一貫させるためいかなる操作が必要かを私達に知らせたのであった。
これは『近代文学』の座談会速記のその後の範例となったが、現実についての考察が現実的生活のなかに生きていないところの私達インテリゲンチャの思考と日常とのこの分離は、また、『近代』化された小林秀雄の上半身を支える下半身の暗黒の内容が、いかなるものであるかを示している。」
「多くの未知の資料を駆使した本書は、批評家小林秀雄の形成過程について鮮やかである。紙の上の勉強が主要事で、現実との格闘は少なく、ただ男女の三角関係のみが全面にでてくるだけの人物の評伝は、広く大きな現実感に裏打ちされた切迫した発想を促すような厚味はないものであるにもかかわらず、『父』と『子』という設題をもって導入し、『社会化された自我』の解明へまで読者を牽引してゆく江藤淳の手さばきは見事である。
そして、著者は、やがて、批評家として形成された小林秀雄が数歩踏みだす展開に際して、『想像力』をもつその『近代的個人』を、『素朴な万葉集の精神』をもった『素朴な自然主義』に癒着させてしまう二重構造の不思議さを露呈するところの、ある晦闇の地点へ達する。」
「これは、小林秀雄自身の喜劇と悲劇についてのみならず、わが国の文学が頑固に足踏みしている長期の愚かしさをも解明すべき核心なのである。にもかかわらず、しかし、まさに、私達の下半身の暗黒部をのぞきこみ、精査し得るその地点で江藤淳は立ちどまったまま敢えて進まず、後退すらするのである。
形成者小林秀雄について緻密で、展開者小林秀雄について同質の密度に欠けること、第一部における資料の駆使が第二部において資料からの駆使に変じているこの労作に口惜しい遺憾さも、この足踏みに由来するが、その足踏みは、また、『近代文学』系の『政治と文学』観、殊に本多秋五の見解が小林秀雄理解を誤らしめるという著者の『政治』についての見解の固持に由来する。」
埴谷さんは、「『近代』化された小林秀雄の上半身を支える下半身の暗黒の内容」と書いておられます。そして、「私達の下半身の暗黒部をのぞきこみ、精査し得るその地点で江藤淳は立ちどまったまま敢えて進まず、後退すらするのである」と述べておられるのです。
「暗黒」という言葉は、埴谷さんの言説の中で、よく出てくる言葉です。埴谷さんには、「もっと暗黒を!」という題名の論述もあります。埴谷さん的な言い方に沿っていえば、この「暗黒」こそ、左側と見なされている埴谷さんたちと、小林秀雄氏、江藤淳氏といった右側とみなされている保守と呼ばれる人たちとを分ける、「分水嶺(ぶんすいれい)」ということになるのかもしれません。
そして、そこをどう評価するかについては、まさに、個々人によって分かれる、ということになるのだと思います。
埴谷雄高さんの「ラムボウ素描」
「暗黒」という言葉を好んで使われていた埴谷雄高さん。「もっと暗黒を!」という題名で論評までされている埴谷雄高さんですから、埴谷雄高さんを評して、「夜の思索者」と呼ぶこともできるでしょう。ある雑誌のインタビューで、埴谷さんは「好きな女性は?」と問われ、確か、「どこかのマダム」と答えておられました。
「どこかのマダム」とは、もちろん、埴谷さんが飲み歩いた、どこかの「夜の酒場のマダム」のことでしょう。埴谷さんのこうした冗談めかした発言ひとつにも、「酔いどれ船」の詩などで有名な、フランスの天才詩人アルチュール・ランボオの痕跡(こんせき)を読み取ることができるような気がします。
ランボオ(1854年〜1891年)は、いうまでもなく、30代後半という若さで夭折(ようせつ)したフランスの天才詩人です。通常、フランス象徴派を代表する詩人の一人として、紹介されたりもしています。
マラルメ、ロートレアモンなどと並び、「1870年の五人の異端者」の一人に挙(あ)げられています。まさに「早熟の天才」「神童」という名を欲しいままにした詩人です。
ランボオが詩を書いたのは、「ウィキペデア」によると、15歳から20歳までの、わずかな期間。その期間に、「酔いどれ船」「地獄の季節」「イリュミナシオン」という有名な詩を書いています。
また、ランボオは、他人に宛てた「見者の手紙」において、「詩人はあらゆる感覚の、長期にわたる、広大無辺でかつ合理的な錯乱により、見者となる」と、“ 詩人の秘技 ” のような「見者」の奥義(おうぎ)について述べています。
小林秀雄氏は、『ランボオ詩集』の中で、他人に宛てたこの「見者の手紙」を、こう訳しておられます。
「 千里眼でなければならぬ、千里眼にならなければならぬ、と僕はいふのだ。詩人は、あらゆる感覚の、長い、限りない、合理的な亂用によって千里眼になる。戀愛や苦悩や狂氣の一切の形式、つまり一切の毒物を、自分を探つて自分のうちで汲み盡し、たゞそれらの精髄だけを保存するのだ。
言ふに言はれぬ苦しみの中で、彼は、凡ての信仰を、人間業を超えた力を必要とし、又、それ故に、誰にも增して偉大な病者、罪人、呪はれた人、——或は又最上の賢者となる。彼は、未知のものに達するからである。 (原文のママ)」( 『ランボオ詩集』 ランボオ⦅Ⅲ⦆ 東京創元社 1972年初版発行)
既成概念や既成秩序の破壊、そして既成のブルジョワ道徳の破壊などなど——ランボオが精神的にこれらを破壊し、「見者」たらんとした試みは、まさに「反逆の詩人」「革命の詩人」の名を彷彿(ほうふつ)とさせるものでした。
ランボオは、わずか20歳で詩を放棄し、そのあとは、流浪の旅に出ます。小林秀雄氏によれば、「流刑地をアフリカの砂漠に選び、隊商の編成に餘年がなかった」(『ランボオ詩集』 ランボオ⦅Ⅲ⦆)とのこと。
小林秀雄氏は、ランボオについてこう書いておられます。
「人々は彼と共に、文學の、藝術の極限をさまよふ。この祕教的一野生兒のものした處には、その決然たる文學への離別と、アフリカの炎天の下の、徒刑囚の様な勞動の半生が、傳説の衣を纏ひつけ、彼の問題は日に新たであるらしい。 (原文のママ)」(『ランボオ詩集』 ランボオ⦅ II ⦆)
そしてまた、小林秀雄氏はランボオの最後をこう記しておられます。
「一八九一年の冬、ランボオは、ハラルで膝に癌腫を患ひ、五月、辛うじてマルセイユの病院まで辿りついたが、脚部切斷の手術も效なく、十一月、信心深い妹のイザベルに看取られ、死んだ。 (原文のママ)」(『ランボオ詩集』 ランボオ⦅Ⅲ⦆)
30代後半という若さで世を去ったランボオ。その姿は、まさに「夭折の天才詩人」の名にふさわしいものでした。
若き日の小林秀雄氏もまた、ランボオの詩やその生き方にいたく感動し、「地獄の季節」を翻訳されるなど、ランボオ詩集の名翻訳家としての顔も持っておられたわけです。
埴谷雄高さんも、ランボオに強く共鳴されておられます。埴谷さんは、「ラムボウ素描」(『埴谷雄高作品集 外国文学論文集5』 河出書房新社 1972年初版発行)というご自身のランボオ論の中、最後のくだりでこう書いておられます。先ずは、ランボオの「地獄の季節」の引用からです。
まだまだ夜だ。流れ入る正気とまことの温情とは、すべて受けよう。暁が来たら俺達は、燃え上がる忍辱の鎧を着て、光り輝く街々に這入ろう。友の手が何だと俺は語ったか。有難い事に、俺は昔の偽りの愛情を嗤う事が出来るのだ、この番(つがい)になつた嘘吐き共に、思い切り恥を掻かせてやる事も出来るのだ、——俺は下の方に女共の地獄を見た、——さて、俺には、魂の裡にも肉体の裡に真実を所有する事が許されよう。 (原文のママ)
———地獄の季節・別れ
このランボウの詩「地獄の季節・別れ」を引用した上で、埴谷さんはこう述べておられます。
「これは、虚飾も仮装もない、真摯な声ではないか、素朴な純一な文学少年時代の魂のままな。——彼の書へ顔を近づける私達へ、彼はその顔を近づけてくる、私達が彼へかかわりを持つとき、彼もまた私達へかかわりをもってくるという親密な仕方で——。
このとき、彼の書は、もはや単なる『異教徒の書』でなくなってくる。彼の書を近代の人間精神よりの隔絶に成功した一詩学の成果としてのみ見るならば、私達はついに彼へ近づき得ないだろう。それどころか、そこには整理しがたい悪影響、不胎の産物のみが残るだろう。
それは、ひとりラムボウについてばかりの危懼ではない。『われ語る、故にわれあり』の謂わば不遜な、神に擬せた詩学を仮託した象徴派の詩人達もまた、そのとき、私達に無縁となる。
『日本語に訳された西洋の近代詩というものは、ラムボウに限らずすべて皆『謎々』みたいなものであり、すこしも詩味の本質的所在がわからない』(萩原朔太郎・リヴィエール・辻野訳『ランボオ』への序)という彼の感慨は、私達にとってまた感慨深い。方法と本質の統一化なくしては、私達は、つねに『謎々』の復讐をうけるのである。(原文のママ)
———「コスモス」三号二一年月)」
『死霊』冒頭の有名なアフォリズム
この記事の最後に、埴谷雄高さんらしい文章をいくつか掲載しておきましょう。それは、埴谷さんお得意のアフォリズムに満ちた文章です。アフォリズムとは、警句であり、箴言(しんげん)と訳されています。
埴谷さんは、この箴言の名手でした。埴谷雄高さんの文章「不合理ゆえに吾信ず」(『埴谷雄高作品集 短編小説集2』 河出書房社 1971年初版発行)は、まさに、この卓抜なアフォリズムに満ちています。たとえば、そこに出てくる、埴谷さんのこの有名な一節。
————生と死と。Pfui !
魔の山の影を眺めよ。
悪意と深淵の間に彷徨いつつ
宇宙のごとく
私語する死霊達。
「悪意と深淵の間に彷徨いつつ 宇宙のごとく 私語する死霊達」。この一節は、埴谷さんが終生をかけて取り組まれた未完の小説『死霊』の冒頭にも掲げられた一節です。埴谷さんは、よほど、この一節が気に入っておられたのでしょう。
また、「20世記最大の実験小説 」とも呼ばれた『死霊』全体を暗示するものとして、この一節を冒頭に掲げられたのでしょう。
ちなみに、私は、学生時代、この埴谷さんの一句が、頭の中で、よくリフレインされていました。思いがけず、「不条理」な感情に襲われたりすると、「Pfui ! (ぷふい!)」なる言葉が、思わず口を突いて出たことを覚えています。
薔薇、屈辱、自同律の不快
———「不合理ゆえに吾信ず」
埴谷雄高さんの「不合理ゆえに吾信ず」から、さらにいくつか、文章を引用してみましょう。
————賓辞の魔力について
苦しみ悩んだあげく、
私は、或る不思議へと
近づいてゆく
自身を仄かに感じた。
すべて主張は偽りである。或るものをその同一のものとしてなにか他のものから表白するのは正しいことではない。ゴルギアスもまた忌まわしく思惟する網の裡に棲みながら彼自身の悪徳を味わっていた ———そんな想念が、生き生きした姿をとった。属性の魔力について知りぬいていたばかりではなく、そこに眩暈せしめるもののひそやか悪徳の裡に、私も耽っていたのである。
————そこにわたしの魂が
揺すられる場所、
そんな純粋な場所はすでに
私から喪われてしまった。
———われわれがなんであれ、
いずれにせよ、とにかく
それとは別のものなのだ。
———私はソフィスト達を愛した。
彼等が見放し
また見放されたものに対して、
幽霊のごとく憑きまとい
また憑きまとわれる
いわば執拗な魂によるのであった。
つねに正しさを自覚している
ソクラテスのごとき輩に対しては、
私はつねに憎悪を覚えた。
———私が《自同律の不快》
と呼んでいたもの、
それをいまは語るべきか。
———薔薇、屈辱、自同律
——つづめて云えば
俺はこれだけ。
私はしばしば想いなやむのであるが、不快の裡に棲むものは論理と詩学のみであろうか。翅よ、翅よ、誰がここから飛びたつであろう。
———⦅動かしてみよ。
その微光する
影がわかるぞ。⦆
他に異なった思惟形式がある筈だと誰でも感ずるであろう。何処に? その頭蓋をうちわっている狂人を眺めているかのような表象を私はつねにもつ。
———凡てが許されるとしても、
意識のみは
許されることはあるまい。
この悪徳め!
———存在が思惟するときの
ひそやかな囁きを聞こう。
それはそこに自身を見出し得ない
呻きではないのか。
———睡眠の葬送。
影に敲ちまわる影。
ひとはかつて五分間と論理的に思考し得たことはないであろう。されば、私の人間についての命題は、その生の理由を、夢のあけぼのに於ける微動に借りている。
レスビアよ。
言葉なき歌を唄え。
われをして言葉なき
不思議の裡へ睡らしめよ。
身を削られる不眠の夜々、この巨大な宇宙を或る日破壊するであろう或る男の心裡に駆りゆくものは、私をいま駆りやるそのものに違いあるまいと、私はさいなまれるごとくおもいはかった。
———ひとの思想によつて
考えるのを止めてからの
私には、
虚無の日々をいとおしむ
ものうさがおぼえられた。
———白き交響曲
(サムフォニイ)。
そは神々の園にして−−−−。
———⦅ロマネスク。
そは絶望の反語なるか。⦆
———ああ、仮面よ。
全か無かを問う、
かの宗教的情熱を喚ぼう。
———「構想」十四年十月一号
—十六年十二月七号
ランボオのような「屹立」した精神
埴谷さんの「不合理ゆえに吾信ず」には、最初に発表された媒体と時期が掲載されています。それによると、このアフォリズム集は、戦争前から書かれていたことがわかります。
埴谷さんは、昭和6年(1931年)には、すでに共産党に入党されていたわけですから、このアフォリズム集は、まさに「革命」の意図を持って書かれたといってよい面もあるのではないでしょうか。
とはいえ、これは、単なる政治的意図を持って書かれたものとは違います。そこに横溢(おういつ)しているのは、類稀(たぐいまれ)な詩人の魂と、これまた類稀な思索者、文学者の魂です。それらの混合、アマルガムです。
ランボオからの強い影響力も感じさせられますし、埴谷さん独特の思考の持続力、耐久力も感じさせられます。何よりも、言葉の卓抜なセンスに感心させられます。文章の格調の高さがあります。
『死霊』もそうですが、こうした世界は、やはり、埴谷雄高さんならではのものでしょう。出版社の未来社から出された、数多くの埴谷雄高さんの評論集の本の題名には、むずかしい題名が付けられています。その題名を、スラスラと読める人はまずいないでしょう。
でも、それこそが、まさに、“ 埴谷ワールド ” ではないでしょうか。なんだか、「異世界」への扉が開かれているような気がしてきます。
埴谷雄高さんという文学者を、日本の文学史の流れの中で見ていくと、その特徴は際立っています。類例のない作家、独創的な作家であることは、いうまでもありません。いや、世界の文学史の流れから見ても、そうかもしれません。
埴谷雄高さんは「精神のリレー」ということも、よくおっしゃっておられました。しかし、埴谷雄高さんから、「精神のリレー」のバトンを引き継ぐ作業は容易ではありません。
そこにあるのは、ランボオのように、「屹立(きつりつ)」した精神だからです。
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