小林秀雄氏の「科学論」
- Nobukazu Tajika
- 2024年6月21日
- 読了時間: 46分
更新日:1月30日
◼︎小林秀雄氏
CD 小林秀雄講演 第六巻 より
「音楽について」<談話・音楽>
/ 新潮社・写真:新潮社写真部
講演に収録された
小林秀雄氏の「科学論」
文学者であり、思想家でもある小林秀雄氏(1902年〜1983年)は、近代批評の創始者です。戦前、戦後を通して、日本の文学界、思想界に大きな与えてきました。
いうまでもなく、小林秀雄氏は、文章の “ 練達の士 ” です。「批評の神様」と呼ばれました。その文章は、彫刻家が、ノミで対象物を彫(ほ)るように、削るに削った、彫りに彫った、まさに彫り上げ切ったような文章です。
幅広い学識に基づく、深い思索力や洞察力、鋭い直観力、そして独特な美意識。音楽的なリズムを基調としたパセティックな文体。論理的思考と、詩的ともいえる直観力とが融合した見事な文体をつくり上げました。
当代きっての理論家ながら、日本語による“ 論理的な散文詩 ”とも呼ぶべき、詩人と音楽家の心をあわせ持った文体を創造されました。その偉業に対して、三島由紀夫氏(1925年〜1970年)は、小林秀雄氏のことを「天才」と誉(ほ)め称えていました。自分も「天才」と呼ばれた三島由紀夫氏ですが。
しかし、小林秀雄氏の見事さは、「書き手」としてだけにとどまりません.。「語り手」としても、小林秀雄氏は “ 練達の士 ” です。人間味あふれるという点では、「語り手」のほうに、それは、よりはっきりと表れているように思います。
私が大学生のときに最初に買った全集本は、新潮社から出ていた「小林秀雄全集」でした。文学、思想、音楽、絵画、そして科学と、小林秀雄氏の関心は実に幅広く、その考察もまた、実に鋭く、深いものでした。内外に及ぶ研鑽(けんさん)の数々。その読書量は類稀(たぐいまれ)なものであることは、自ずとわかりました。
何かの文献で読んだ話ですが、小林秀雄氏の大学生時代を知る人——確か、大学図書館の関係者だったと思いますが、その人が「小林さんは1日に6冊も本を読んでいる」と、その勉強ぶりに驚いていました。小林秀雄氏の研ぎ澄まされた知性や感性、本質をたちどころに見抜いてしまう “ 見切り ” の速さというものは、「1日に6冊も本を読んでいる」という、若い頃からの、すさまじい勉強量に裏打ちされたものに違いありません。
「戦後思想界の巨人」 の一人として目された人物に、思想家の吉本隆明さんがいます。私がインタビュアー役を務め、吉本さんとは何冊か、インタビュー本という形で本を出版させていただきました。個人的にも、お付き合いがあった方です。そうした “ 近さ ” ということもありますので、ここでは吉本さんのことを、「氏」ではなく、「さん」と呼ばさせていただくことにします。
その吉本さんが、「小林秀雄を超えることなど、とてもできない」と、しみじみ、いっておられました。ご自身のことを「独立左翼」と呼んでおられた吉本さんが、片や保守本流の中心にいるとみなされていた小林秀雄氏のことを、「超えることなど、とてもできない」、といっておられたのです。
左翼だろうが、右翼だろうが、この際、そんなことは、全然、関係ありません。さらにまた、吉本さんは、私にこうもいっておられました。「小林さんは、僕らが何ページもかかって書くところを、わずか数行で書いてしまう。超えることなんか、とてもできませんね」、とも。
私は「科学論」というものも探ってみました。科学とは何か? 科学とは、どういう学問なのか? なんとか答えをえたいと思いましたが、残念ながら、当の科学者からは、私が期待していた答えは、まったくえられませんでした。
それは、ある意味、不思議なことではありますが、よくよく考えてみますと、当然といえば当然でした。科学者という人たちは、自分の研究に、日々、没頭しがちなものです。その研究内容にもっぱら関心が向いていて、「科学の方法論」に疑問を持つなどということは、およそ皆無といってよいのではないでしょうか。
しかも、その「科学の方法論」は、けっして科学者個人のものではなく、大勢の科学者、時代全体に共有されているといってよいものであり、今日、「科学の常識」といってよいものなのですから。
しかし、「科学の常識」は、本当に「常識」なのでしょうか? 私たち現代人が持つべき「常識」なのでしょうか? 疑うことが許されない「常識」なのでしょうか? その疑問に答えてくれたの、科学者ではありませんでした。やはり、小林秀雄氏でした。科学者ではないからこそ、逆に、明言できたともいえましょう。
小林秀雄氏の「科学論」は、原理的、本質的です。鋭利な刃物のように、鋭く、現代人に反省と再考を促すものとなっています。小林秀雄氏は「科学論」というものについて、講演の中で実に平易な言葉で語っておられます。明快、わかりやすい言葉で語っておられます。
ですので、私は小林秀雄氏の講演録を、ここに、できるだけ忠実に記載しておきたいと思いました。普段、あまり語られることのない「科学論」。科学の「可能性」と「不可能性」について、それについて論ずることは、極めて意義深いことである、と。精神の問題がともすればなおざりにされ、物質偏重、科学偏重の現代社会において、それは十分意義ある作業だと思います。
なお、ここに記載したのは、新潮社からCD化され、発売されている「小林秀雄講演 第1巻〜第8巻」の中の、「信ずることと考えること 第2巻」(1974年 於/鹿児島県霧島)に収録されている講演録や、「現代思想について 第4巻」(1961年 於/長崎県雲仙)に収録されている講演録などが、もととなっています。
その後、この講演は、『小林秀雄 学生との対話』と題した本にもなりました。出版元は同じ新潮社で、国民文化研究会・新潮社編となっています。
同著によると、1961年(昭和36年)から53年にわたって、小林秀雄氏が九州に赴(おもむ)き、講演し、全国60以上の大学から集まった300〜400名の学生や青年と交わした対話の記録だそうです。小林秀雄氏自らが加筆訂正を施(ほどこ)して、2014年に同著の初版が発行され、その後、何度も増刷されています。
ちなみに、以下の中見出しは、もともと付いていた新潮社の本の大もとの見出しに加え、私が読みやすいようにと、付けておいた中見出しです。小林秀雄氏の講演での言説を、読みやすくすために、私のほうで、改行や中見出しを付けるという作業を施(ほどこ)してあります。
「近代科学」の方法について
以下は、小林秀雄氏の講演にもとづく記載、『小林秀雄 学生との対話』という本の中で活字化されたものの抜粋(ばっすい)です。
「今日学問といえばみな科学です。しかし、この科学というものは、始まってからまだ三、四百年しか経っていないのです。科学的精神などというのは、ほんの近頃の風潮なのです。科学的精神ということを言うでしょう。ああいう言葉が、非常にまどわしい言葉なのです。
経験というものは、人間昔から誰でもしていることですが、この人間の経験なるものを、科学的経験というものに置き換えたということは、この三百年来のことなのです。そのために今日の科学は非常に大きな発達をしましたが、この科学的経験というものと、僕らの経験というものとは全然違うものなんです。
今日科学の言っているあの経験というものは、合理的経験です。大体、私たちの経験の範囲というのは非常に大きいだろう。われわれの生活上の殆どすべての経験は、合理的じゃないですね。その中に感情も、イマジネーションも、道徳的な経験も、いろんなものが入っています。それを、合理的経験だけに絞ったのです。
だから科学は、人間の広大な経験を、きわめて小さい狭い道の中に押し込めたのです。これをよく考えなければいけないのです。科学というものは、計量できる経験だけに絞ったのです。いろいろな方向に伸ばすことができる広大な経験の領域を、勘定することのできる、計量することのできる経験に絞った。そういう狭い道を行ったがために、この学問は非常に発達したのです。
だから、今日の科学というものは、数学がなければなり立ちません。一番先には天文学ができたでしょう。それから力学、物理学、生物学、化学という風にだんだん発達して来たけれども、理想とするところは、いつでもはっきりした計算です。
だから、近代科学というものの法則を定義すれば、それは一つの計量できる変化と、もう一つ計量できる変化との間の、コンスタントの関係ということです。科学はいつでも、この法則の下にあるのです。科学は法則に従う経験だけに人間の経験を狭めたのです。そいうことを諸君ははっきり知っていなければ駄目です。」(『小林秀雄 学生との対話』 「信ずることと知ること」 P34~35)
科学は合理的経験だけに絞った
「なるほど科学は経験というものを尊重している。しかし経験科学と言う場合の経験というものは、科学の経験であって、私達の経験ではない。日常尋常な経験が科学的経験に置きかえられたのは、この三百年来のことなので、いろいろな方向に伸ばすことができる、私達が、生活の上で行なっている広大な経験の領域を、合理的経験だけに絞った。
観察や実験の方法をとり上げ、これを計量というただ一つの点に集中させた、そういう狭い道を一と筋に行ったがために、近代科学は非常な発達を実現出来た。近代科学はどの部門でも、つまるところ、その理想としての数学を目指している。
人の心の定めなさは誰しも感じている。人間精神の動きの微妙さは計量計算には到底ゆだねられない。そこに精神的なものの本質があると言っても、常識にそむくまい。
そこで近代科学の最初の動きは精神現象を、これと同等で、計量出来る現象に置きかえられないかという探求だったのです。十七世紀以来、脳の動きが心の動きと同等であるかのように研究は進められて来た。脳の本性は知られていないとしても、それは力学上の事実に分解出来る事は確かですから、精神科学は脳の事実に執着すればよかったのです。
常識は、脳と意識に密接な関係がある事を否定してはいない。しかし心身は厳密に並行しているなどとは考えていない。脳の分子や原子の運動によって表現したところを、意識の言葉によって繰り返す、そんな贅沢(ぜいたく)を自然はしたろうか。無用な機能は消えて了うのが自然の傾向である。
くり返しに過ぎぬ意識など、たとえ生れたとしても、宇宙から消えていた筈(はず)でしょう。私達の行動にしても、習慣によって機械的なものになれば、無意識になることを、誰でも知っています。
ベルグソンは、常識に従った。常識の感じているところへ、決定的な光を当ててみる事は出来ないかと考えたのです。そして失語症の研究に這入って行った。」(『小林秀雄 学生との対話』 「信ずることと知ること」 P162~163)
科学が一番困った「精神の問題」
「科学では計量ということが一番大事なことだから、一七世紀以来科学が最も困ったのは精神の問題、心の問題だったのです。精神というものは計れないだろう。科学は君の悲しみを計算することはできないだろう。だから、科学は、人間の精神というものを、どういうふうにして計ったらいいか、と。それで、人間の精神というものを、人間の脳に置き換えたのです。
脳の分子の運動さえ正確に計れば、精神というものが正確に計れる筈であるという仮説を立てたのです。これが心身並行論という仮説です。脳髄は分子の運動から成り立っているのだから、その運動をたどればこれは数学に乗っかります。まだ未知だけれども、だんだん精密に計ってゆけば、遂には精神に到達する、精神の法則が分かるわかという道を科学は進んだのです。
ベルグソンは、長いこと信じられていたこの人間の脳と精神の並行関係を、始めから疑わしいものと思っていたと言うのです。常識で考えてみよ。一体この自然には、無駄というものがない。ある一つのものが、片方では脳髄の原子の運動に翻訳されて表現される。同じものが、片方では意識の言葉となって表現される。一体自然にとって、こんな贅沢は許されるだろうか。
もし本当に脳髄の運動と、人間の意識の運動、精神の運動が並行しているならば、どうして自然はこの二つの表現を必要としたんだろう。それなら、精神なんかいらないじゃないか。盲腸は人間の器官として役に立たない不要のものだから、なくなってしまったじゃないか。無駄なものは。とうの昔になくなっている筈ではないか。
第一、習慣になれば意識などはいらないでしょう。そんな時には、諸君の意識というものは、すっかり退化して、なくなっているでしょう。もしも、脳髄の運動と精神の運動が、同じものの二つの表現ならば、表現はたった一つでいいわけだというのです。」(『小林秀雄 学生との対話』 「信ずることと知ること」 P35~36)
ベルグソンが迫った「記憶」の謎
「それで、彼(注:ベルグソン)は記憶の研究に入っていったのです。なぜ記憶の研究をしたかというと、人間の言葉の記憶というものが、脳髄のある一箇所にあることが分かっていたからです。脳髄のある箇所に言語中枢があり、その限られた局所が傷つけられると失語症になるのです。あの人は失語症の研究を長い間したんです。そうして、あの人は天才的な発見をしたのです。
今日細かいところはだんだん発達していますが、この発見の根本のところは動かないのです。それはどういう発見かといいますと、精神と脳髄の運動は並行していないという事なのです。脳髄の、記憶が宿っていると仮定されているところが損傷されますと、人間は記憶が傷けられるのではなくて、記憶を思い出そうとするメカニズム、記憶を感知する装置が傷けられるのです。そのため人間は記憶を失うので、記憶自体は少しも傷けられてはいないのです
もしも並行しているならば、そういう局所に損傷を受ければ、記憶そのものがなくなってしまうわけです。しかし、記憶自体はなくならないのです。ただそれを呼び起こすメカニズムが損傷されたから、記憶がまるでなくなってしまうような状態になるのです。
だから、脳髄の分子の運動を詳しく研究して行って分ることは、ベルグソンのたとえでいいますと、それはオーケストラを指揮している指揮棒だというのです。
指揮棒は見えるが音は決して聞こえないというのです。指揮棒は脳髄の働きで、音は精神なのです。僕らの脳髄はパントマイムの器官なのです。パントマイムの舞台で俳優がいろいろな仕草をするのを、僕らは見ることができます。脳髄の運動はそういう仕草をしているのです。
けれども台詞は決して聞こえない。この台詞が記憶なのです。精神なのです。脳髄は精神の機能ではないのです。だからベルグソンは、人間の脳髄は現実生活に対する注意の器官であると書いています。注意の器官だが、意識の器官ではないのです。意識を、この現実生活につなぎとめる作用をしているのです。人間はみな、忘れる忘れるといいますが、人間にとって忘れるくらいむずかしことはないのです。
例えば溺れて死ぬ男が、死ぬ前に自分の一生を見るとか、山から転落する男が、その瞬間に自分の子供の時からの歴史をぱっと見るとかいう話はよく聞くでしょう。それは記憶なんです。その時、その人間は、この現生、現実生活というものに対する注意を失うのです。この現実に対して全く無関心になるのです。
けれども人間はこの脳髄というものを持っているお陰で、いつも必要な記憶だけを思い出すようになっているのです。脳髄はいつでも、僕に現実の生活をするのに便利な記憶だけを選んで思い出させるようにしているのです。その注意の器官たる脳髄の作用が鈍ると、記憶はぱっと出て来るのです。
だから諸君はいつでも、諸君の全歴史をみんな持っているんです。それを知らないだけです。それを無意識というのです。諸君が意識しているということは、諸君がこの世の中にうまく行動するための意識なのです。無意識はいつでも諸君の中にかくれているのです。」(『小林秀雄 学生との対話』 「信ずることと知ること」 P36~39)
脳髄が解体しても精神は残る!?
「ベルグソンがそういう発見をした頃に、心理学の方で無意識ということが非常に大きな問題になりました。不思議なことというものは、この世に溢れているのです。精神というものは、いつでも僕らの意識を越えているのです。そして、いつでも表われる機を狙っているのです。
そう考えれば魂というものの存在も、頭から否定する事は出来ない。僕らが死ねば、霊魂はなくなるとみんな考えている。だが、しっかりした根拠によってそう考えているのではない。それは、やはり、この三百年来の科学というものの考え方にばかされているんです。もしも、脳髄と人間の精神が並行していないなら、僕の脳髄が解体したって、僕の精神は独立しているかも知れないではないか。これは常識で考えられることです。
記憶と脳髄というものは、並行していない。お互いに独立しているのです。人間が死ねば魂もなくなると考える、そのたった一つの理由は、肉体が滅びるという理由しかないではないか。これは十分な理由ではないではないか。
僕がこうして話しているのは、僕の理性が話しているのですし、ベルグソンが一所懸命に説いているのも、理性に従って説いているのです。けれども、これは科学的理性ではない。僕らの持って生まれた知恵です。持って生まれた理性です。
科学は、この持って生まれた理性というものに加工をほどこし、科学的方法とするのです。計算できるということと、理性があるということは違いましょう。計算できるということは、ある学問の、ある方法だろうが、学問の種類は非常に多い事も考えなければならぬ。そんな方法だけに従わなくても、立派な学問をしている人もあるでしょう。
僕らはいま月に行けるでしょう。科学の方法が僕らを月に行かせているのです。それは、僕らが行動の上において、非常な進歩をしたということです。けれども、僕らが生きてゆくための知恵というものは、どれだけ進歩していますか。
例えば『論語』以上の知恵が現代人にありますか。これは疑問です。僕らの行動の上における、実生活上の便利さは、科学が人間の精神を非常に狭い道に、抽象的な道に導いたおかげだといえるでしょう。そういうことを、諸君はいつも気をつけていなければいけない。
理性は科学というものをいつも批判しなければいけないのです。科学というのは、人間が思いついた一つの能力に過ぎないという事を忘れてはいけない。
心理学というものも非常に発達しましたが、それも、人の心を物的に扱う線上に発達するので、人間の人格というようなものになると、うまくあつかえない。この線では少しも発達していません。
今は昔のように狐憑き(きつねつき)などというものはない。しかし、ノイローゼ患者はいっぱいいる。あああれはノイローゼだというレッテルを貼るだけです。狐憑きというレッテルと、レッテルたることにおいてちっとも違いはありません。
ただ現代の知識人は、自分の合理的な意識というものに対して、非常に傲慢な自惚を持っています。『あのノイローゼは、近頃の研究によると、ちょっと違ったノイローゼらしいよ』などというのです。それで事はすんだと思い込んでいるのです。それでおしまいですね。そういう風なことになってしまった。」(『小林秀雄 学生との対話』 「信ずることと知ること」 P39〜41)
空間的には規定できない
「魂の実在」
「無論、生理的なものと精神的なものは絶対に密接な関係があるんです。ですから、生理的な原因から説明することのできる精神現象はたくさんあります。」(『小林秀雄 学生との対話』 「現代思想について」 P54)
さらに、小林秀雄氏はフロイトの精神分析に触れながら、こう述べておられます。
「ここで心理学は大きな展開をした。つまり、心理というものを、それまでのように生理学的な基礎から分析していくのをやめて、精神の裡(うち)に隠れた原因、観念的な原因を探るという新しいメソードを立てたわけです。
そこから必然的に、人間の心は意識とはまた違うものだということがわかった。僕らの心は、無意識という大きな世界を背負っていて、意識は心のほんの一部が表面化しているに過ぎない。こうして、魂というものがあるとわかったのですね。これが無意識心理学です。
ベルグソンの研究によれば、僕らの魂は、脳の組織の中には存在しない。もしも脳の組織の中に存在しているのであれば、脳の組織を調べれば魂はわかるわけでしょう? そこにはない。けれども記憶現象は、いわゆる魂は、存在しているのです。これをおかしいと思うのは、古い、習慣的な考え方ですよ。
存在するというと、いつも空間的なものを考えてしまうのです。これは僕らの悟性の機能の習慣に過ぎない。存在するものが空間を占めなくたって、ちっともかまわないわけでしょう。空間的には規定できない存在も考えうるのです。むしろ、空間的に存在するものは、潜在的な存在が顕現するのを制限している機構だというに過ぎない。
無意識はいったい、どこに存在するのですか。頭の中ですか。ならば生理学で済んだでしょう。そうではないのです。無意識心理学というのは、心理を、心を、心で尋ねる学問なのです。しかし、心は実在しているのです。それを、『どこに』と問うことは意味がないでしょう? これが今の新しい心理学の根拠です。こういう道をフロイトとベルグソンが開いた。
これは根本的な問題だけれど、非常に難しいことです。だから、ほっておかれたのです。ベルグソンの哲学、ベルグソニスムとか、フロイトはフロイディズムとか、知識として一派を成すくらい流行しましたが、彼らが開いた戸口は、実に重要なものです。魂の実在というのは、空間的存在ではない。決して物的に還元しえなものなのです。」(『小林秀雄 学生との対話』 「現代思想について」 P54~56)
直覚は実在に達しうる
「ご承知のように、カントという人は形而上学を否定しました。カントは、物が——物質でもいい、精神でもいい、世界でもいいですが——本当は何であるかということは、学問で証明することは不可能だと証明したのでしょ?
科学は、実在とは何かを知ろうとしているのではないのです。実在の<関係性>を調べるのが科学です。実在の本質、つまり物自体とはどういうものであるかを調べるのは形而上学です。その形而上学が不可能であるということをカントは証明しました。
人間の知識というものは、たかが知れているんですよ。人間の知識の代表的な、典型的な、誰にも納得のいく普遍的なものというのは、科学でしょう?
その科学は実在、物自体には達しないんです。科学は物自体とは関係がないんです。現象的なものに関係がある。カントがそう言って以来、形而上学は不可能になってしまった。
それでもベルグソンなど、人間の知恵は物自体に触れうる。つまり今なお形而上学は可能だという立場を取っている人はいます。
カントは悟性というものの知的な構造を調べて、実在に達するためには悟性だけでは足りないと証明した。しかし、人間には悟性のほかに直覚という知覚がある。直覚だって、物を知るための能力です。悟性のごとくにはメソードが明らかにされていないが、あるメソードを持った能力には違いない。
だから、悟性と直覚とを一緒に使えば、つまり人間の全的な能力を使うことができれば、実在に達しうる。ベルグソンはそう考えたのです。僕もそう信じます。」(『小林秀雄 学生との対話』 「現代思想について」 P59~60)
直覚から分析への一方向の道
「両方使えばいい。直覚も分析も使えばいいのです。ベルグソンの分析というのはきわめて鋭いですよ。あなたがお読みになっても、そう思うでしょ?
直覚したところを分析するんです。けれど、分析したところは直覚にはならない、とベルグソンは言っているだけです。逆は真ではないと言っているだけです。分析から直覚に行く道はない。でも、直覚から分析に行く道はあるんです。科学も実はそれをやっているのです。
科学者の実際の仕事を見れば、僕らの知っている科学などというものは、これはもう子どもなんです。彼らの仕事そのものの中に入ってみますと、やはり立派な科学者は非常な直覚力を持っています。
将棋だってそうでしょう? 僕らの指している将棋って、分析なんだよ。プロはパッと直覚するんです。木村義雄八段が書いていたけれど、プロは二時間も考えるでしょう? あれは手を考えているのではないのです。パッと直覚した手が果たして正しいか、分析しているのです。それで二時間考えて、最初に直覚した手を指す。その時、三つの手があるとします。多分これがいいなと直覚するのですが、その三つをきちんと手を読んで分析しなければいけない。それに二時間かかるのです。
そんなふうに直覚から分析に行く道はあるけれども、分析からは先がないとベルグソンは言っているだけで、分析を決して軽蔑しているわけではない。分析がなければ、科学なんてありません。哲学もありません。というのは、概念というものに頼らずには、人間は論理的に話すことができないんです。ただ、直覚というものがなければ分析は始まらないとベルグソンは言っただけなんです。
それをどうかして、分析したものから直覚したものに達しようと無理をするから、心理学でも心理分析というものをやる。そうした分析から、いろんなエレメントができる。そのエレメントを集めれば、直覚した生きた真理が出来上がると信じてはいけない。
それは科学の自信過剰である。時間が過去から未来に流れるように、直覚から分析に流れる方向があって、その逆の方向をたどろうとしても、人間にはできないのだ。そいうことを言ったのです。」(『小林秀雄 学生との対話』 「現代思想について」 P80~81)
◼︎小林秀雄氏
CD 小林秀雄講演 第四巻より
「現代思想について」
<講義・質疑応答>
/ 新潮社 写真:文藝春秋
常識と経験に沿った学問へ
「無論、精神科学というものは大変若いんです。このあいだ始まったばかりだ。たとえばニュートンだとかガリレオなんて人が精神科学を始めていたとしたら、どんなに今の精神科学が変わっていたかもしれない。でも彼らはみんな物質科学から始めたんです。物質の科学が始まって、生物学が出てきて、生理学が出てきて、化学が出てきて、だんだん発達して心理学に行ったんです。
心理学まで行き着いて見ると、いろいろの手続きの誤りがあらわになってきた。だから、心理学はこれからもっと独創的なメソードを発見するでしょう。その一つがフロイトだよね。でも、あれで終わるんじゃないのです。これからです。つまり、真に人間的な思想というようなものを作るのは、諸君の双肩にあるわけだよ。
科学と哲学は二つに分けられるが、ベルグソンはああいうことにも反対なんです。学問は一つでいいのです。こっちの対象に使って成功する方法を別の対象に使うのはいけない、と言っているだけです。つまり物質的な対象に向かって学問した方法を、人間の感情とか意識とか自由とか、そういう問題に応用したところで成果は得られない、得ようとすれば人為的なごまかしが入ってくると言っているのだ。
別の対象を扱う場合は、方法を変えなくてはいけない。精神的な対象に向かっては、まず直覚的な方法を取りながら、徐々に近づいていけ。一挙に物を片付けることはできないかもしれないけども、学問を少しずつ進めていけば、方法さえ正しければ、やがて達成できるであろうと言うのです。
ベルグソンは科学を一つも否定していませんよ。科学が物質に向かった場合は、確かに実在をつかむのです。科学はカントが言ったように、決して相対的な知識ではない。あれは絶対的な知識なのです。ただ、それは対象が物質の場合だよ。そういう時、なぜ科学は自由意志の問題というものを取り除くのです? これは独断です。
エネルギー保存の法則というのがある。これは、エネルギーが保存される法則が成り立つ対象においてのみ成り立ちますね。精神の世界で、特に自由の世界で、エネルギーを保存しますか。そんなことはしない。すると科学は自由の否定まで必ず行くのです。
しかしそれは僕らの持って生まれた常識と経験に反するじゃないか。それなら、僕らの常識と経験に沿った学問が始まらないといけない、ベルグソンはそう言ったのです。」(『小林秀雄 学生との対話』 「現代思想について」 P81~83)
科学は「認識」ではない
「現代人は、すぐに行動しなくてはいけないと考えます。<あはれ>を知る、ということは、行動ではないのですよ。物を見ること、知ること、つまり認識です。物を本当に知るというのは一つの力なのだということを、現代人は忘れていますね。現代人はすぐ行動したがるのです。その行動の元になっているのが科学です。
科学などというものは、物を知るためには、ちっとも役に立っていません。なるほど、月に行くためには、敵を殺すためには、労なくして物を得るためには——そういう諸々の行動をするためには、科学は非常な役割を果たしているでしょう。けれども、人間の生活とはどういう意味合いのものであろうかといった認識については、科学は何もしてくれないのです。
たとえば、人間にとって水とは何か、どういう意味合いを持っているのかと考える時、この水の意味を知ることと、水を分析してH₂Oだと知ることとは全然違うでしょう。それはもちろん、水という自然を僕らがうまく利用し、行動するためには、分析してH₂Oだと知らなくてはいけない。しかし水を認識することについては、科学は何の助けにもならない。
僕が君の性格を知るということは、君という人の<もののあはれ>を知ることです。そういう君を認識することです。しかし、僕が生物学者として君を知る時は、君の性格を抜かしてしまって、心臓移植とは何かとか、医学の進歩のために君を解剖する。これは君を認識することとはまるで別だろ? そういう意味です。」(『小林秀雄 学生との対話』 「文学の雑感』 P99~100)
「物を本当に知るのは科学ではない。物の法則を知るのが科学です。いいですか、そこはよく考えてもらわないといけない。つまり、科学というものは、法則を目がけているだけなのです。
科学は、僕らの本当の生きる経験などは要らないのだ。生きている意味合いなど、科学は認めないのですよ。いつでも科学は、物と物との因果関係、自然はどういうふうに動いているかという因果関係を目指しているものです。
科学は僕らの生活経験の認識を目指しているのではない。僕たちが生活においてどういうふうに能率的に行動すべきか、ただそこを目指しているだけだ。そういう意味で、科学は認識ではありません。」(『小林秀雄 学生との対話』 「文学の雑感」 P113)
科学に負けてはいけない
「今は、科学をしなければ、誰も生きていられません。物の法則を知ることだって、人間には大切なことです。だから、科学を捨てろというのではないんです。ただ、僕らは科学に負けてはいけない。
科学は、本当に物を知る道ではなく、いかに能率的に生活すべきか、行動すべきか、そういう便利な法則を見出す学問なのです。それもたいへん必要なことだけれども、見誤ると、科学さえやっていれば僕らは物を知ることができると思ってしまう。
『そっちの原因は何だ?』『そっちの原因はこうだ』『じゃ、あっちの原因はこうだ』。これ、無限でしょ? 原因は無限に、いくらでも調べることができる。一体、これが物を知ることですか?
そっちとあっちの関係を知るだけで、物を知ることはできやしません。これが現れるためにはこういうコンディションが必要だ、こういうコンディションが出来(しゅったい)するためにはこういう原因が必要だ。そんなふうに、いくらでも複雑になる。しかし、物そのものを認識するのとは、これはまったく違うことです。
認識とは、科学みたいに便利なものではありません。僕の認識することと君の認識することは違うじゃないか。だから喧嘩もする。その代わり、君は僕を好きになるかもしれない。それは僕たちが違うからではないか。そうだろう? 僕らの認識とはそういうものなのです。
僕らの認識は僕らの生活を決して便利にはしてくれません。だけど、僕らの生活を生活しがいのあるものにするのは、認識です。僕らの生活は、僕らの認識によって、喧嘩にもなるし愛にもなる。認識とは、非常に面倒なものです。その面倒なところに人生があるのです。そこの値打ちを知らないといけない。」(『小林秀雄 学生との対話』 「文学の雑感 P113~115)
科学にぶら下がる
「人間」という厄介なもの
「今はみんな、科学の中でも、物理学を科学の一番理想的な形と思っています。確かに理想的な形だ。物理学は。しかしこれが本当に理想的な形になったのは、この二十世紀になってから、アインシュタインが現れてからです。アインシュタインが現れて、まるでピタゴラスが昔考えたように、宇宙が<数(すう)>になった。専門的なことは面倒だし、僕は存じませんけどね。数になったことは確かですね。
この宇宙は四次元連続体というんでしょう? 昔は三次元と時間で説明されていたのです。上下と左右と奥行きと、次元が三つある。そこにもう一つ別の次元で時間があった。ニュートンの時代の物理学はそうでした。これが今はみんな一緒になって、四次元というものになった。四次元になると、これは何でも計算ができてしまう。すべて数学になってしまうのですよ。
要するに、時間というものは一つの虚数です。単位は光速です。光の速度によって、ああいう虚数を持ってきて、Xの4という計算をしていると四つの次元が合体する。時間も空間もなくなるわけです。虚数を持ってくると計算が可能なのです。だけど、それは方程式を満足させるための虚数だろ? 今の物理学は、そういう極めて純粋な数学の姿をとるようになっている。
ところが経済学などというものは、物理学のように純粋な形態をとっていないでしょう?
やっぱり経済というものには、人間のいろいろな取引、欲望だとかさまざまな心理的要素が入ってくる。社会学も、もちろんそうだ。ところが、現代の経済学者あるいは社会学者は、純粋なる数学をあまりにお手本にし過ぎるんですよ。みんな、そこへ持って行きたいのだ。だから、いろいろな誤りができてくるわけです。
やはり経済学や社会学、あるいは文学や美学は、物理学がどうなろうと、それぞれ独特の世界を持っているという当り前のことを知らなくてはならない。それぞれの個性に準じて、科学精神を用いればいいわけです。(中略)
あんまり科学というものを理想的な形だと見て、科学で何もかもうまくいくと思ってはいけないのです。いつでも人間というこの厄介なものが科学にぶら下がっている、それを忘れてはいけない。
人間が科学にどういうところまでぶら下がっているのか、そこをはっきり知って、あとは理性を働かせればいいのです。そのためには、さきほども言った、イマジネーションというものがやはり非常に重要になってくるな。(『小林秀雄 学生との対話』「感想ー本居宣長をめぐってー」 P146~147 )
「イマジネーションは、いつでも血肉と関係がありますよ。イマジネーションというのは頭全体を働かせることですね。頭や精神というのは、常に肉体と触れ合うものです。
僕も経験してきたことだが、イマジネーションが激しく、深く働くようになってくると、嬉しくもなるし、顔色にも出ますし、体もどこか変化してきます。本当のイマジネーションというものは、すでに血肉化された精神のことではないですかね。
<イマージュ>って、<姿>のことですよね。イマジナシオン、イマジネーションって<姿を作る>ことです。何かの姿を作り上げる時、それは必ず血肉化していますよ。
芸術家をイマジネーションの鋭い人だと呼ぶのは、芸術というものがいつでも体と関係しているからです。芸術が文字通り、芸であって術でもあることは、けっして精神だけのものではない、ということですよ。そこには肉体の干渉が常にあるのだな。イマジネーションとはそういうふうに、すでに血肉化された精神だと解していいのではないですか。」(『小林秀雄 学生との対話』 「感想ー本居宣長をめぐってー」 P152~153)
科学は精神を
計量できる肉体に置き換える
「人間というものを考えると、どうしても人間の精神の活動というものを考えなければならなぬ。精神というものを科学的に考えると、前にお話ししたように、どうしてもそれを計量できる肉体にすりかえねばならぬ。科学の方法ではそういうことになります。人間をその生きているがままに考えるというようようなことは、科学の方法ではできないのです。
だから、これと交わるということしかないんだ。その人の身になってみるということですね。考えるためには、非常に大きな想像力がいります。
科学、科学というけれども、本当の発明や発見をした人はみんなそうだったのです。長い間事実と人間のようにつき合っていたのです。交わっていたのです。自分の実験をしているいろんなものが、本当に親身なものになったのですね。
知るということも、熟知という言葉があるでしょう。諸君は知っているつもりでも、本当には知らないのです。本当に知るためには、浅薄な観察では駄目でしょう。ある観点に立って、そこから観察する。しかし本当に知るためには、そんな観点などみないらなくならなければ駄目です。(中略)
人間は抽象的に考えるという時には、人間であることをやめます。自分の感情に従うという弱い状態を忘れます。けれども、人間が人間の分際をそのまま持って相手を考えるという
時には、その人と交わるということになりはしないか。相手の心の中に飛びこむのです。
子を見ること親に如かずというでしょう。親は子と長い間つき合っているから、子供について知っているのです。母親は子供を見るのに観点というものを持っていないでしょう。
科学的観点に立って、心理学的観点に立って、子供を観察したりはしません。子供の内部に入り込む直観を重ねるのです。精神感応などとやかましいことを言うけれども、僕らはみな感応しているのです。人間が分るなどというのは、一目で分ることがあるのです。千里眼ですね。」(『小林秀雄 学生との対話』 「信ずることと知ること」 P49 ~50)
◼︎小林秀雄氏
『この人を見よ』より
/ 新潮社 ・ 新潮文庫
写真 : 新潮社写真部
2015年初版発行
測定不可能な
「偶然」を嫌う現代科学
以下は、小林秀雄氏のCD化された講演録から、私が直接原稿を起こしたものです。その抜粋(ばっすい)を、ここに記載させていただきます。
できるだけ忠実に再現したつもりですが、なにぶん講演です。多少の言い回しや発言の重複などは、私のほうで読みやすいように、いくらか訂正させていただきました。聞き逃し、記載もれをしてしまったような箇所も、あるいは、あるかもしれません。その点は、なにとぞ、ご容赦ください。
なお、小林秀雄氏の講演の中には、現在、社会的には容認されない言葉づかいもありますが、当時の社会では、それは容認されていました。ですけれども、今の社会状況に照らすと、それは容認されていません。
その点を考慮し、CDから私が直接原稿起こしした小林秀雄氏の講演の言葉づかいは、いくらか変更してあります。その点を、あらかじめ、お断りしておきます。
「さっきユングのことを話したから、もう一つ思い出した話をしましょう。これも、ちょっと科学ということに関係があるからね。ユングって人は、これはフロイトの弟子ですが、何というか、もっと穏やかな、説が違うんですよ。説が違うなんてことは、大したことじゃないんです。そんなことはね。
ユングは、原住民の研究を非常にした人なんです。こんなことを書いていた。娘が三人で水を汲みに行ったんですね。ナイル川に。そしたら、真ん中にいた娘がワニに食われた。ワニに食べられちゃったという事件が起こった。そうすると、原住民はどういうふうに考えるか。川の神様の祟(たた)りだって考える。そういう考えは、われわれ文明人は、たいへん軽蔑する、と。前論理的だと。そういうふうに軽蔑するけども、もう少し、諸君、ものは考えなくちゃいけないんだよ、と。
誰にだって、ものを考える前提というものあるんです。現代人はどういう前提をもって、ものを考えているのか。それは、因果律という前提だよ。自然の因果律ね。だから、因果律ってものは、現代の一つの神聖なるドグマであると言ってますよ、とユングは。
なんでも、ある時代には、みんなドグマがあるんです。そして、そのドグマの中に入っている人は、絶対にそのドグマを知らないのです。これは、人間の弱さだね。だから、ものはもう少し考えてみなければいけない、と。公平に。じゃあ、原住民はどういうドグマを持っているのか?
そういう事件が、たとえばナイル川で起こったとするでしょ。すると、現代人は出かけて行って、それで説明するんです。現代的な、合理的な説明というのは、どうしたらいいですか? そういう場合。なぜ、真ん中の娘が食われたんですか? なぜですか? なんて説明してやりますか?
現代人は言うでしょう。それは、偶然だと。真ん中の娘が食われたってことは偶然なんだ。事故です。新聞だって、たくさん書いている。事故、事故って言ってるじゃないか。事故って、何です? 偶然だってことね。偶然なんです。
それじゃあだね、原住民はね、真ん中の娘が食われたんです、それで、非常なショックを受けたんです。村全体が。でも、そんならば、現代の科学的に考えれば、そんな事件が起こらないってことはどうなんだ、どう説明します? 偶然じゃないか。
じゃあ、真ん中の娘が食われたってことは、もしも偶然ならば、食われなくて済んだということも偶然じゃないですか。そう言うんです。諸君にも、その原因は、わからないじゃないか。
そんなら、現代人の常識的説明はだな、その真ん中の娘が食われたってことを、説明できないでしょう。偶然だってことは。食われなかった場合も、また説明できないじゃないか。だから、そんなことを言ったら、原住民は笑うですよ。原住民は、それが、説明したいんです。偶然を、説明したいんです。だから、実は原住民のほうが進んでいる、とユングは言っています。
どうして真ん中の娘をワニは食って、横の二人を食わなかったのか? そりゃあ、もちろん、原住民の説明に従えば、ワニは真ん中の女が食いたかったんですよ。だから、真ん中の娘を食ったんです。実に明快な説明だね。だから、原住民は頭が悪いんじゃないんです。前提が違うんです。原住民は、偶然のほうを大事にするんです。
だけど、現代の科学は、偶然ほどイヤなものはないでしょう。現代の諸君の常識にとっては、偶然は説明することはできないんです。だけどもだよ、なぜ諸君は偶然だと言って済ませているのか。それは、今にわかるだろうと諸君は思っているからです。今のところ、原因はあまりに複雑で、僕らの科学では探究できないけども、これは探求できるはずのものである。これを偶然と呼んでいるんでしょう。そうでしょう。
偶然というものは、測定不可能な、測定するのにはあまりに原因が複雑な、そういう事件でしょ。そういうものを偶然と呼ぶんでしょう。だから、因果律というものは、偶然が何度生じても、諸君が信じている因果律というものは揺るぎませんね。揺るぎません。それは、今、実際的に測定できないだけのことなんです。だけど、神様みたいに頭のいい人がそこに現れれば、偶然はないわけです。あらゆるものは必然なわけです。
だから、偶然というものは、僕たちの測定の無能力によるんです。そうでしょう。そう信じているからこそ、諸君がいかにたくさんの事故にぶつかっても、いかにたくさんの偶然が現れても、諸君は驚かないで、それは偶然だというんです。偶然だということは、説明できないということです。そりゃあ、説明できないってことです。
原住民は、そうじゃないんです。原住民は因果律を知らなかったか? 知っているんです。もしも、原住民が因果律を知らなければ、道具も発明することはできないでしょう。一日、生きてゆくことはできませんよ。ぶら下がった木から手を離しゃ、崖から谷底に落っこちる、原住民はみんな知ってますよ。だけど、あんまり当たり前だから、そんなことは気にかけないんです。因果律なんてものは、あんまり当たり前のことです。だけど、偶然は、当たり前のことじゃないです。
たとえば、ワニはあんまり人を食わない、非常に臆病な動物だってことをよく知っているんです。経験によって、原住民はよく知っているんです。だから、ワニが人を食うなんてことは、非常に珍事です。しかも、真ん中の娘は、ちょうどその時には王様の娘だったとするんだ。普段、ナイル川にはどのくらいたくさんのワニがあるか知らないけども、毎年の統計によれば、ワニに食われて死んだ人は、一年に何人かしかいない。ワニが人を食うなんてことは、たいへん珍しいことだ、と。しかも、そういう時に、そういう珍しいことが起こったんです。しかも、女が三人いるのに、真ん中の女を選んだんです。ワニが。
たいへん、これは偶然だ。その偶然を説明したいんです。説明するのに一番いい方法は、一番彼らに論理的な方法は、ワニが一番真ん中の娘を欲しがったんだ、そうに違いないと考えることが、一番自然な彼らの論理なんです。彼らの論理の知能がだよ。間違いやすいことなんですけど、人間の精神の機能というものは、違いやしないんです。論理的な機能がね。
それから、倫理的な機能も違いやしない、と僕は思っています。原住民の間だって、英雄はいたんです。善人はいたんです。悪人はいたんです。殺されなければならん奴は、いたんです。道徳の景色は、まったく違ったけども、倫理的な頭の機能ってなものは、僕らと同じです。
精神力の非常に強い人は尊敬されたんです。親切な人は尊敬されたんです。愛情の深い人は、また、感じられたんです。そういうふうな心の置き方だって、僕らとちっとも違いやしないのです。
そういうふうに前論理的に考えるということは、僕らの考える前提が違うんです。彼らは、たった一度起こった経験を尊重するんです。毎日毎日起こるような事件は、これは、考えるに足りないんです。そうでしょう。で、今の科学はそうじゃない。
今は、偶然っていうようなものを、たいへん軽蔑しておりますけども、偶然が、どんな文明になっても、起こっていることには変わりないですね。偶然は、いつでも諸君に起こっています。だけど、それを諸君は、よく考えないだけなんだ。
だけどもね、偶然というものは、今日ではプロパビリティの問題だよね。全然、知的な問題だよね。だけど、偶然っていうものは、また経験的問題でもあるでしょう。そうでしょう。
例えば、通りを学生が三人歩いていたら、上から瓦が落っこちてきて、真ん中の学生が死んだ、と。偶然ですね。事故が。その子どもは、ちょうど私の息子だった、と。これは、偶然の経験ですな。ケガしたとか、死んだってこととかでは、違いますな。偶然は偶然です。そういうふうに、偶然の経験ってのはありますな。
もしも、偶然ってものは、プロパビリティの知的な問題じゃなくって、偶然というのは僕らの経験の問題ならば、偶然は昔とおんなじような威力をふるってますね。で、僕らの生活に影響していますね、偶然は。僕らは、やはり、偶然には非常なショックを感じますね。
なんと運が悪いんだろう、と。こりゃあ、運が悪い人でなければわかりません。本当に運の悪い目にあった人は、諸君の中にもあるだろう。そういう人は、運が悪いってことをよく知っているでしょう。
どうして瓦が落っこちてきて私の息子を殺して、すぐ隣を歩いていた隣の息子を殺さなかったのか? なんと俺の子どもは、運の悪い子どもだったろう、とおっかさんは思うだろう。それは、子どもを殺されてみなければわからんですよ、そういう経験はね。だけど、それは偶然でしょ。そういうふうに、経験を重んじたね。経験のほうが、知識よりも非常に強い力を持っていたんだ、原住民には。
だから、経験のほうに執着したんです。で、そのたった一つの経験を、どうにかして説明したかったんです。だから、ワニが俺の娘を食いたかったに違いない、と。もしも、ワニがそう思ったんじゃなければ、川の神様がワニにそう命じたに違いない。こういうふうに考えます。だって川に神様があるなんてことは、これはもう、原住民にとって明瞭なことですよ。僕らは、神様はいないってことは、そんなに明瞭なことかな。」(小林秀雄CD講演録 「現代思想について 〜ワニに食われた娘の話」)
太陽の美しさは主観か客観か?
「昔の古代人は、みんな、太陽を拝んだ。この信仰は、人類、どこにでもある信仰です。今だって、太陽を拝む人があります。田舎へ行くとね。そういうものが残っています。なぜ、太陽を拝むんですか? 太陽は聖なるものだった。昔の人には聖なるものだった。第一、昔の人はね、古代の人は、人間が自然を支配しているなんて夢にも考えていませんでしたね。
例えば、インドでは、俺たちの世界で一番偉い人は誰か? それは、象だよ。その次はライオンなんだ。その次は、人間かもしれない、というふうに考えていましてね。何が人間なんて、そんな偉いもんか。そんなことは、みんな、夢にも考えていなかったな。今は、人間が一番偉いと考えています。だけど、これは本当かね? ちっとも、よくよく考えないです、こういうことを。
だから、歴史というものも、そうなんです。歴史というものは、本当に、諸君、むずかしいもんだよ。なぜかっていうと、歴史ってものに、みんな、現代の色眼鏡を通すからだ。通さなくったて、チラチラするものがあるんですよ。
通さないで歴史を見ることは、たいへん、むずかしいけどな。たいへん、むずかしいけども、これを通さないと、チラチラ見えるものはあるんです。せめて、そういうチラチラ、歴史を見なきゃいけないんだ。
それじゃ、太陽を拝んでごらん。太陽には、神聖な力があるんです。だけど、現代人はそうじゃないんです。そりゃあ、みんな、君の心の、気の迷いだよ、と。太陽はかくかくの物質で、ああいう核分裂を行って、熱を出している一つの物体なんだよ。あれには、なんにも、神聖な力なんかも、ありゃしないんだ、と。あれを神聖だと思うのは、みんな、お前の気の迷いだと言うでしょ。神聖だというのは、お前の感情なんだ、と。
その感情を、現代の言葉で言うと、投影と言いますね。心理的投影と言いますね。お前のその中に持っている感情を、あの太陽に投影したんだ、昔の人は。
驚くのも、感心するのも、尊敬するのも、みんな、お前の心なんだ、と。驚くべきものなんて、ありゃしない。感心するものなんて、ありゃしない。そういうふうなものは、みんな、お前の心にあるものを、みんな、お前は太陽に向かってプロジェクトしたんだ、と。投影したんだ、と。
昔の人は、みんな、そうだった。あの森には悪魔が棲(す)んでいると、昔の人は信じていたんです。そうじゃない。今の心理学からいうと、そうじゃない。悪魔は、お前の心の中にあるんだ。その悪魔を、お前は投影したんだ。昔の人は。投影してたんだと。そう言うんです。本当かね、それは。
それじゃあ、たとえば今日、絵かきが、詩人が、太陽を見て美しいと思う。詩人でなくてもいいです。諸君が思うんです。日の出は美しいんです。美しいと思うのは、君の主観か、果たして。
太陽が美しいんじゃないですか。太陽というものは、実際、美しい。美しいものが、向こうにあるんですよ。それを、君は感じるんじゃないですか? 君は単に、君の美しいと思う君の主観を、太陽に投影しているんですか? それに過ぎないのですか? というのは、君の想像力に過ぎないのですか、美しいということは。君はもう、答えられないじゃないか。
科学は、そう言うんです。君の想像力に過ぎないんです。美しいなんてことは、もちろん、君の主観に過ぎないんです。太陽は美しいなんてものを、持っていません。そんなものは。それは、君の心だ。気の迷いだ。それじゃ、芸術ってものは、みんな、迷いの上に立っているんですか?
どうして、あんな利口な人が、何十年も何十年も、迷い抜いたんですか? 僕はそう思うな。きっと、太陽は、あれ美しいんですよ。僕が美しさを発明しているんじゃないです。僕は想像もしているんじゃ、ないんです。太陽は東に昇るんですよ。ちゃんと、ああいう、実体なんです。それで、あれは美しいんです。あの美しさは、太陽から来ているに違いない。
こう、古代人は考えたんです。だから、礼拝(らいはい)したんです、太陽を。
だけど、それは、どっちにありますかね? それは、今日においても、非常な難問題じゃないですか? 諸君は単に、そう思っているかもしれないけれど。それが現代の常識というものです。現代の思想というものです。
だから、現代の思想なんてものには、なんの根底もないんです。少しものを考える人には、根底はありません。歴史的根底があるだけです。だけど、学問的根底はないです。理性的根底はないです。心理的根底があります。それを、イデオロギーというんです。だから、唯物史観を信じるなら、そこまで信じたまえ。本当に。
だから、なんでもないです。イデオロギーなんか。もっと根底ある思想を信じようじゃないか。もっと根底ある思想ってなものは、今みたいに、もう少し考えることです。それが、きっかけです。
だから、実際のところ、そうなんですよ。僕らの常識は、精神というものと、物体とか、肉体とかいう言葉ができたということは、たいへん意味の深いことで、これは、みんな、僕らの平常の経験にもとづくんですよ。精神的経験というものと、物的経験というものは、どうも違うんですよ。私らの常識が考えると、非常に違うんですよ。質的に違うんです。
ものの考え方が二つできてくるということは、そういう言葉が生まれてくるということは、経験にもとづくんです。だから、これには、深い根拠があるに違いないんです。両方の現象が並行しているとか、一致しているとかいうのは、これは人為的な考えです。
つまり、人間がこの物質界、この自然を征服するために、いろんな技術を発明するために、一つの手段を必要としたんです。測定という手段を。こういう測定という手段を必要としたので、その測定という手段は非常に成功しました。ある現象を説明するには、大変、大きな成功をしたんだけども、こういう測定的な方法でもって、この実在全体を説明する、その人生観ってものが組み上がるかどうかってことは、また別問題で。
だから、われわれの経験的事実によれば、この世の中には、精神的事実ってものと、物的事実の、こういう漠然とした名前でもって、分けて差し支えのない実在がありますよ。経験がありますよ。それなら、そのほうをもとに信じたらいいですね。
それで、いろいろな歴史の、いろいろのなりゆきによって、物的な実在ってものを基本にして、この世の中を見たがるような傾向になったり、それから、精神的な事実ってものを基本として見るようになったり。いろいろになります。
今は、現代ってなものが、たいへん物的事実というものを尊重して、物的事実から精神的事実も説明しうるとまで自惚れた時代です。だから、そういう時代にベルグソンのような人が現れて、いろいろな科学的事実、科学的成果に基づく、あれほどの綿密な思索を必要としたんです。それが間違いだ、と言うのにですね。
今はジャーナリズムが非常に力を持っていまして、文化って問題ね、こういう問題はみんなジャーナリズムが表現していると、錯覚しているものです。絶対にそういうことはない。今はもう、物質文明になったから、精神ってなものが大事だという反動が、きっと起こるんですよ。つまらなんいだ、そういうふうなものはね。
歴史には、動、反動というようなものがあって、ある考え方っていうものが、波を打って上がってきますと、ガタンと落ちて、今度は反対の考え方ってのが上がって来る。そういうふうに、事のなりゆきってなものね、ジャーナリズムは、いつも、この事のなりゆきってなものに乗っかるんですがね。こういう事のなりゆきというものから、文化は生まれないんですよ。」(小林秀雄CD講演録 「現代思想について 〜太陽は美しい」)
肉体が滅びても
「魂」はなくならない!?
「だからね、不思議なことってのは、もう、そこにあふれているじゃないですか。精神というのは、いつでも僕らの意識を超えているんですよ。で、いつでもそれは現れるんですよ。現れる機を狙っているんです。
だから、魂なんてものも、そう考えればなんでもないことです。僕ら死ねば霊魂はなくなるなんて、そんな呑気(のんき)なこと、みんな考えている。そんな古い考えはないです。それは、やはり、この300年、400年くらいの科学ってものの考え方にバカされているよ。魂があるなんて、そんなねえ、わかり切った常識ですよ。
どうなっているか、知りませんよ。知らないけれど、もしもだね、脳髄と今の人間の心がだね、今の人間の精神がだね、並行していないならばだよ、僕の脳髄が解体したって、僕の精神は独立しているかもしれないじゃないか。これ、普通の常識で考えられることです。
もしも、人間の記憶というものがあったらね、脳髄の運動が、全然、並行していないんです。お互いに独立しているんです。その両方の関係ってものは、非常にわからない。わからい。わからないけども、とにかく独立しているんです。
だから、僕ら魂がないなんていうのは、僕の肉体が解体しちまうじゃないですか、解体するっていう、その理由しかないじゃないですか。ほかに、理由はないだろう。
人間が死ねば魂もなくなるという、そのたった1つの理由は、肉体が滅びるという理由しかないじゃないか。肉体と魂が並行していなければ、その理由は、十分な理由ではないじゃないか。そこに、大いに疑う余地があるじゃないか。もしも、諸君に理性があるならば。
僕がこうやって話ししているのは、僕の理性が話しているんですよ。科学ってのは、理性じゃないですよ。あんなものは。あれは方法ですよ。そういうことを、もう諸君は言葉にだまされてダメなんです。理性的になれ、感情的になるな、と。こう、言うんです。だけど、科学は理性なんて持ってやしません、全然。僕がこういう話をしているのは、僕の理性が話ししているんです。
ベルグソンが一生懸命説くところ、彼は理性に従って、説いているんです。だけど、あれは科学の理性じゃないんです。僕らの持って生まれた知恵です。持って生まれた理性です。持って生まれた理性ってものを、科学は非常に狭(せば)めたんです。
計算できるっていうことと、理性があるっていうことは違いますよ。計算できるってことは、ある学問のある方法です。学問が従っている方法です。だけど、学問の種類は多いですよ。そんな方法に従わなくたって、偉いことをやっている人はたくさんいますよ。
だから、科学がやっていることは、どういうことかといいますと、人間の精神っていうものを、現在、生きるために有用なる記憶に変えるってことを、しょっちゅう、やっているんでしょう。その方向にしか、科学はちっとも発達していないです。
諸君、僕ら今、月に行けるんでしょう。なんですか、あんなこと。なぜ、月まで行けたのか? 科学の結果です。科学の方法が、月にまで行かせているんです。僕らは行動の上において、非常に進歩したってことです。
だけど、僕らが生きていく知恵ってものは、どれだけ進歩していますか? 『論語』以上の知恵が現代人にありますか? 『論語』に書いてあるような知恵が。あれは全然発達しないけども、月に行けるほど科学は発達しているんです。
つまり、人間は、現世の便利さ、行動の上において、非常に発達をしたってことは科学のおかげだけども、科学が人間の精神を非常に狭い道に導いた、そのおかげなんです。だから、非常に偏頗(へんぱ)な発達をするんです。そういうことを諸君は、いつでも気をつけていなければならないんです。諸君は、みんな、科学の奴隷ですよ。
科学というものを批判しなければいかんですよ、理性は。科学ってのは、人間が思いついた1つの能力じゃないですか。ただ1つの。あれの発達というのは、必ず、物的なものなんです。精神の上では、全然、発達しておりませんです。
心理学ってのは、今、非常に発達しましたな。発達しましたけども、人間の人格なんてものはひとつも発達していないです。なんだか、人間の精神というものは、荒廃にきしているじゃないか、今。」(小林秀雄CD講演録 「信ずることと考えること」)
※なお、この講演録は後に、「信ずることと考えること」から「信ずることと知ること」へと表題が変更されました。






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