「唯物論」について
- Nobukazu Tajika
- 2024年6月21日
- 読了時間: 38分
更新日:1月30日
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科学や社会を支配する「唯物論」
科学の主流をなす唯物論というものについて、考えてみたいと思います。いや、唯物論は科学のみならず、現代社会の主流をなす支配的な考え方といっていいでしょう。しかし、そもそも唯物論とはなんでしょうか?
『広辞苑』(岩波書店)には、こう記されています。
「唯物論(materialism):精神に対する物質の根源性を主張する立場。従って物質から離れた霊魂・精神・意識を認めず、意識は高度に組織された物質(脳髄)の所産と考え、認識は客観的実在の脳髄による反映であるとする。」
唯物論は古くからある考え方です。同じく『広辞苑』にはこう書いてあります。
「唯物論は古くインド・中国にも見られるが、西洋では古代ギリシャ初期の哲学者たち以来、近世の機械的唯物論(特に18世紀のイギリス・フランスの唯物論)を経て、マルクス主義の弁証法的唯物論に至るまでさまざまな形態をとって、哲学史上絶えず現れている。」
いうまでもなく、唯物論は根本的な原理として、物質的存在の優位性を主張します。
ドイツの哲学者、経済学者、革命家であるカール・マルクス(1818年〜1883年)は、その著『ヘーゲル法哲学批判』の序章で、「宗教は大衆のアヘンである」と述べました。有名になったマルクスの言葉です。
唯物論の考え方からすれば、「神は存在しない」ということになります。それは人間がつくり出した幻想にすぎない、ということになります。マルクスが宣言した共産主義、その根底に流れているのは、“ 無神論 ” という考え方です。
20世紀、世界中に伝搬(でんぱん)し、強い影響力を持った共産主義や共産主義革命の根底あるのは“ 無神論 ” という考え方であり、唯物論、弁証法的唯物論という考え方です。
20世紀後半、ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)が崩壊し、東西の陣営を分けたベルリンの壁が壊されました。しかし、21世紀に入った今もなお、共産主義は生き延び続けています。世界には、共産主義国家や社会主義国家が厳然として存在します。
このことが、西側陣営の資本主義国家との激しい対立を生んでいます。ロシアによるウクライナへの軍事侵攻は、これを如実に物語っています。絶え間なく、戦争、紛争の原因になっています。戦争の火種になっています。
「弁証法」とはそもそも何か?
ところで、弁証法的唯物論というのは、1840年代にマルクスが唱えたものです。従来の唯物論が機械的だったのに対して、マルクスは弁証法的唯物論を唱えました。ヘーゲルまでの弁証法が観念的だったのに対して、唯物論的な弁証法を唱えた、というのがマルクスの特徴です。
弁証法的唯物論は、人間の歴史は唯物史観にもとづいて説明されるべきである、と主張します。人間がつくり出してきた社会、人間的実践というものは、唯物史観という観点に立ってのみ初めて了解される、ということになります。
経済的な観点から眺めれば、平たくいうと、こうなります。人間の日々の営み、生活の基盤をなすのは経済活動にほかならない、ということになります。精神的な営みを上位に置いて人間の社会や歴史を考えるというのは、逆立ちした考え方である。
マルクスは、ヘーゲルの考え方は逆立ちしている、逆立ちした考え方である、と批判します。弁証法的唯物論は、マルクスやエンゲルス、次いでレーニンらが思想、社会、政治など、さまざまな面で発展させていきました。
ここで、弁証法とは何か? その言葉の意味を、きちんと説明しておく必要があります。私たちの日々の生活、普段の生活には、あまり馴染(なじ)みのない言葉です。ですから、人によって、その言葉の使い方は実に曖昧(あいまい)です。聞いていても、わかったような、わからなかったような気になります。
弁証法とは哲学の言葉です。哲学用語です。ここで再び、『広辞苑』を引いてみることにしましょう。いささか長くなり、お堅い説明になってしまいますが、我流の説明より、正確にお伝えできると思いますので、辛抱(しんぼう)してお読みいただければ幸いです。
「弁証法」という言葉の意味を、『広辞苑』はこう説明しています。
「弁証法(dialectic) : 本来は対話の技術の意味で、ソクラテス・プラトンでは概念の真の認識に到達する方法であった。アリストテレスは多くの人が認める前提からの推理を弁証的とよび学問的論証と区別した。カントは錯覚的な空しい推理を弁証的とよび、弁証法を『仮象の論理』とした。ヘーゲルは、有限なものは自己自身の中で自己と矛盾し、それによって自己を止揚し、反対物へ移行するとし、これを弁証法とよんだ。この立場から全世界が不断の運動・変化・発展のうちにあるあることを示し、それらの内的連関を明らかにしたが、彼の場合は弁証法はイデーの自己発展という神秘的な形で展開された。
マルクス・エンゲルスは唯物論の立場からヘーゲルを批判的に摂取して、弁証法を『自然、人間社会および思考の一般的な運動法則・発展方式についての科学』とした(唯物弁証法)。すなわち、形而上学的思考法と対立し、世界を固定的事物の複合としてではなく、新たなものの生成、量から質への転化、古いものの消滅という諸過程の場合として認識し、一切の事物は、他の事物と相互関係にありながら、自己の諸過程内部における対立物との闘争によって自己運動を起し発展するという基本的法則に立脚する。」
プラトンの「対話編」こそ
弁証法の基本
弁証法は古代ギリシャの弁論の技術から始まりました。当時、古代ギリシャのアテナイを中心にソフィストたちが横行していました。ソフィストというのは、金銭を受け取って徳を教えるとされた弁論家、教育家たちの総称です。
ソフィストたちは、競って、雄弁術をふるうことを生業(なりわい)としていました。ちなみに、ソフィストとは、「賢くする」を意味する動詞「ソピゾー」から作られた名詞で、「賢くする人」とか、「教えてくれる人」とかを意味します。
ソクラテスが忌(い)み嫌ったのが、実はこのソフィストたちでした。ソクラテスは、ソフィストたちの雄弁術を忌み嫌いました。ソクラテスがどういう見事な弁論を展開したかは、プラトン(紀元前427年頃〜紀元前347年)の著作によく見て取れます。
プラトンはソクラテスの弟子です。ソクラテス自身は、「書き文字」としての著作を一切残していません。「話し言葉」を残しただけです。そのソクラテスの「話し言葉」、つまりソクラテスの見事な話ぶり、弁論を書き残したのはプラトンです。
プラトンは著作の中にソクラテスを登場させることで、「対話法」という「書き言葉」による独創的な文章術を生み出しました。一読すれば誰しもわかりますが、そこに、ソクラテスがまるで生きているかのように、イキイキと登場してきます。
ソクラテスの弁論を聞いたあとは、誰も反論などできないような状況へ、おのずと追い込まれていきます。そういう論理的必然へと、話し相手を導いていくのです。
「対話法」によって書き残されたプラトンの著作は、叡智(えいち)に満ちています。現在、私たちが手に入れることができるプラトン全集は、まぎれもなく “ 人類の至宝 ” といっていいものでしょう。
この「対話法」こそ、実は弁証法の基本なのです。その後、弁証法は、カント、ヘーゲル、そしてマルクスなど、西洋哲学史の中で変遷(へんせん)していきます。だんだんと複雑、難解なものになっていきます。専門的な知識がないと、とても読み解けないものとなっていきます。しかし、もとをたどれば、弁証法の基本形はプラトンの「対話編」にあります。このことを、私たちは、よくよく胸に刻んでおきましょう。
ソクラテスとの対話にもとづくプラトンの著作は、哲学的知識など無用な、平易な言葉で書かれおり、誰でも簡単に読めます。そして、誰しも、否応なく説得され、納得させられていきます。
弁証法とは何か? その問いに答えることは、容易ではありません。しかし、そういうときには、いつもプラトンの「対話編」に立ち返って考えてみることにしましょう。理解がしやすくなります。
科学は「物自体」に踏み込めない!
さて、問題を科学に引き戻しましょう。唯物論にもとづく科学とは、どういう学問なのでしょうか?
科学、なかんずく自然科学は、物質を対象とする学問です。物質、すなわち物の構造を分析し、状態が変化するに応じて物がどう変化するのか、物と物とがどういう関係にあるか、などといったことを明らかにしていく学問といえます。
私は、「科学と思想について」と題した自分のブログの記事の中で、科学の可能性と不可能性、科学の原理的な限界ということについて言及しました。
カント流にいえば、「形而上学(けいじじょうがく)の不可能性」ということになります。理性や悟性にもとづく科学は、カントの言葉を使えば、「物自体」には踏み込めない、物の内側には入り込めない、ということになります。
しかし、ベルグソンはこれを可能とみなします。ベルグソンによれば、「物自体」に踏み込むことが可能なのです。それは、理性や悟性にもとづく科学によってではありません。ベルグソンの唱える形而上学においてこそ、つまり、「真の哲学」においてこそ、可能だとベルグソンは主張します。
ベルグソンによれば、それを可能にしてくれるのは、「直観」だということになります。悟性と巧みに連動させて、「直観」を用いることによって、それは可能になる、ということになります。だとすれば、私たちは、ベルグソンがいうこの「直観」を学ばなければいけません。
科学——自然科学は、物質を扱う学問です。学問の方法としては、必然的に唯物的な方法をとります。いや、唯物的な方法をとらざるをえない、といったほうが正確です。科学の主流が唯物論であり、科学者たちの主流が唯物論で占められるのは、ある意味、当然です。
もちろん、科学の絶大な恩恵をこうむっている現代社会もそうです。科学教育を当然の流れとして受け入れてきた現代人が、それと意識せずとも、唯物論を先験的に正しものだとして受け入れてしまっているのも、当然の流れといえましょう。
しかし、忘れてならないのは、科学という学問が、その学問のあり方からして、唯物的であるのは必然だとしても、唯物論というものは、そもそも科学ではなく、“ 思想である ” ということです。このことを、私たちは何度も反芻(はんすう)し、肝に銘じておく必要があります。
唯物論というものは、「思想」なのです。科学ではなく、あくまで、「思想」なのです。多くの科学者たちが、意識的にも、無意識的にも共有している「思想」にほかなりません。“ 思想に過ぎない ” という言い方だってできるでしょう。
拙著『未来のアトム』に対する
唯物論科学者の誤読
このことに対して自覚を持つということは、実に重要で、かつ骨の折れる作業です。時には、身を削るほどの覚悟を要する、といって過言ではないほどです。
私は、身を以(も)って、これを体験しました。2001年のことですから、だいぶ時間は経ってしまいましたが、拙著『未来のアトム』(アスコム / 刊行当時はアスキー 2001年発行)の刊行後に起きた出来事を見ても、このことは象徴的に現れていました。
『未来のアトム』に対する、誤読に基づいた科学者——物理学者のインターネット上の記事。その誤読は、明らかに、その物理学者の哲学的な無知にもとづいています。そして、その物理学者の誤読、すなわち“ 哲学的な無知 ” に端を発した、雑誌「プレジデント」(2001年9月3日号 プレジデント社)の私へのインタビュー記事が、まさしくそうです。
「プレジデント」誌のインタビュー記事は、私にとっては、今もって、とうてい承服できない記事です。そして、結局、『未来のアトム』刊行当時、「プレジデント」誌側とは、論争などとはいえない、低次元の “ 言い争い ”、果ては、 “ 大喧嘩(おおげんか ” にまで発展してしまったインタビュー記事です。
いってみれば、“ 出合い頭の事故 ” のような記事でしたが、その経緯、詳細はいささか複雑ですので、これついては、新たにブログ記事を書き起こします。ご興味が湧く方は、ぜひご一読ください。
しかし、これも、大きくいえば、現代社会を支配している唯物論、唯物論者たちとの争いである、その結果である、との言い方もできます。
小林秀雄氏の
ベルグソン流「二元論」
現代の文学界のみならず、現代の思想界にも多大な影響を与え、かつ多大な影響を与え続けている人物に小林秀雄氏(1902年〜1983年)がいます。文学者、文芸批評家として非常に有名ですが、そうした狭い枠組みにとどまらず、思想家としても重要な人物です。近代日本を語る上で欠かせない存在といえましょう。
小林秀雄氏は、「近代批評の祖」といわれている人物です。その研ぎ澄まされた思索、文章は、多大な影響を与えています。まぎれもなく、日本の精神、知性を代表する人物といえます。
その小林秀雄氏が、ベルグソンのこの上ない愛読者である、ということはよく知られています。ベルグソンから決定的な影響を受け、日本の近代批評を切り開いた人物であるということも、周知の事実です。
そして、小林秀雄氏はまた、ベルグソン同様、自分が二元論者であることを公言されています。日本人初のノーベル賞を授与された理論物理学者・湯川秀樹氏との対談「人間の進歩について」(『小林秀雄全集 別巻𝙸』 「人間の建設」新潮社刊)の中で、「ぼくは二元論者です。精神というものはいつも物性の制約と戦っていなければいけない」と述べておられます。
その偉業を称え、小林秀雄氏の没後、「小林秀雄賞」なるものが創設されました。脳科学者の一人である茂木健一郎氏(1962年生まれ) は、この「小林秀雄賞」を受賞されています。拙著『未来のアトム』を書く際、取材させていただいた科学者のお一人が茂木健一郎氏でした。
私は、脳科学から見たクオリアという茂木氏の考察に興味を覚えました。それで、そのことについて、取材を踏まえ、『未来のアトム』では言及させていただきました。取材後、茂木氏はテレビにも頻繁(ひんぱん)に出演されるようになり、一時は、時代の寵児(ちょうじ)のように扱われていました。
しかし、二元論者であることを公言されている小林秀雄氏と、脳科学という科学の立場から、あくまで、 “ 脳内現象としての意識 ” を読み解こうとする物理学者、脳科学者である茂木氏とでは、思想的観点から見れば、そもそも相容(あいい)れないのではないでしょうか?
それが、私の偽(いつわ)らざる、率直な感想でした。茂木氏が「小林秀雄賞」を受賞されたと聞き、私は内心、「おや?」と思ったものです。現世を去られた小林秀雄氏の「魂」は、どんなふうに見ておられるのでしょうか? 小林秀雄氏ご自身は、「魂」の実在を深く信じておられましたので。
小林秀雄氏には、新潮社から全集本が出ているほか、同じ新潮社からCD化された講演録が発売されています。私はそのCD化された講演録(第一巻から第八巻までの全八巻)を買い求め、すべて聞きました。さすが、「座談の名手」といわれた人だけのことはあります。
講演の面白さは無類です。そして、講演を聞いていた会場の人たちの質疑に対する小林秀雄氏の応答も、当意即妙、まさに無類です。わずか数語、相手の質問を聞いただけで、たちまち問題の本質、核心を見抜いてしまう、小林秀雄氏の造詣(ぞうけい)の深さ、頭の回転の速さということにも、正直、驚きましたし、舌を巻きました。
小林秀雄氏は唯物論について、こう述べておられます。
「諸君、唯物論って何ですか。唯物論なんて本を読んだことがありますか。唯物論哲学というものがどういうものだか、知らないでしょう。これはいけません。それでは、みんなの言うことを聞いて納得しているだけではありませんか。あるいは、みんなの言うことを聞いて議論しているだけじゃないか。これは際限のないことです。」
この発言は、CD化された講演録にもとづきます。その後、講演録は本となって出版されました。『小林秀雄 学生との対話」(新潮社 国民文化研究会・新潮社編)という本が、そうです。2014年に初版が発売されて以来、版を重ねています。
ちなみに、小林秀雄氏の上記の発言は、1961年(昭和36年)、学生たちを相手に長崎県雲仙で行った講演録にもとづいています。「現代思想について」と題された講演です。講演が終わったあとの、学生たちとの質疑応答の中で述べられています。
「魂」は物的存在に還元しえない
小林秀雄氏は、「現代思想について」と題された講演の中で、こうも述べておられます。
「ベルグソンの研究によれば、僕らの魂は、脳の組織の中には存在しない。もしも脳の組織の中に存在しているのであれば、脳の組織を調べればわかるわけでしょう? そこにはない。けれども記憶現象は、いわゆる魂は、存在しているのです。これをおかしいと思うのは、古い、習慣的な考え方ですよ」
いわゆる「心脳問題」「心身問題」です。心(精神)と脳(肉体)の関係の「謎」を問う問題です。古代から現代に至るまで延々と続く、人類にとって、実に重要で深刻な問題です。現代科学とて、この「謎」の解明には至っていません。人類にとって、永遠ともいえる「謎」であり、問題です。
ベルグソン哲学から深く学んだ小林秀雄氏は、「記憶」とは「精神」のことにほかならない、といいます。もちろん、ここでいう「記憶」とは、コンピューターの「記憶」とは、まったく違います。本質的に違います。
私たちは、「記憶」といえば、コンピューターに内蔵された「記憶」を想定しがちです。家電量販店で売っている、“ 記憶容量、何ギガ ” とかいっている「記憶」、USBメモリーなどでいうところの「記憶」です。それと同じように捉えていたのでは、「記憶」のことなどまるでわかりません。
小林秀雄氏がいう「記憶」とは、「精神」そのもののことです。なぜ、小林秀雄氏が「記憶」を「精神」というかということを知るためには、ベルグソン哲学に深く足を踏み入れなければなりません。
もちろん、現代の脳科学は、小林秀雄氏の見解を否定するでしょう。認めないでしょう。しかし、小林秀雄氏の発言の背後には、ベルグソンの大きな哲学があります。
ですから、ベルグソン哲学を知らなければなりません。例えば、科学の知見もふんだんに取り入れた、ベルグソンの緻密かつ独創的な重要な著作『物質と記憶』(白水社刊 田島節夫訳 1965年初版発行)を読まなければなりません。
でなければ、小林秀雄氏の主張の真意は、まったくわかりかねるでしょう。ベルグソン哲学を知らずして、ことの是非、「心脳問題」「心身問題」の是非を簡単に語ることは許されません。
「精神」は、むろん、「魂」と呼び換えてもいいでしょう。唯物論からすれば、脳が生み出した現象に過ぎない「魂」、幻想の産物に過ぎない「魂」、ということにってしまうわけですが、「それは実在する」と小林秀雄氏は主張されているのです。小林秀雄氏は、「魂」の実在を深く確信しておられるのです。
とはいえ、この発言だけで、唯物論者は、すでに、匙(さじ)を投げるでしょう。ついていけない、飛躍がある、と感じるでしょう。
しかし、小林秀雄氏のベルグソン哲学にもとづく考察は、実に、緻密であり、理性的です。“ 非科学的 ” なところなど、少しもありません。
ちなみに、小林秀雄氏の「ベルグソン論」については、新たにブログ記事を起こしますので、それも併(あわ)せてお読みいただければ幸いです。
小林秀雄氏は、先の「現代思想について」の講演の中で、さらにこう続けておられます。
「存在するというと、いつも、空間的なものを考えてしまうのです。これは、僕らの悟性の習慣に過ぎない。存在するものが空間を占めなくたって、ちっともかまわないわけでしょう。空間的には規定できない存在も考えうるのです。むしろ、空間に存在するものは、潜在的な存在が顕現するのを制限する機構だというに過ぎない。
無意識はいったい、どこに存在するのですか。頭の中ですか。ならば生理学で済んだでしょう。そうではないのです。無意識心理学というのは、心理を、心を、心で尋ねる学問なのです。心は脳の中に存在していません。しかし、心は実在しているのです。それを、『どこに』と問うことは意味がないでしょう? これが今の新しい心理学の根拠です。こういう道をフロイトとベルグソンが開いた。
これは、根本的な問題だけれど、非常にむずかしいことです。だから、ほっておかれたのです。ベルグソンの哲学、ベルグソニスムとか、フロイトはフロイディズムとか、知識として一派を成すくらい流行しましたが、彼らが開いた戸口は、実に重要なものです。魂の実在というものは、空間的存在ではない。けっして、物的存在に還元しえないものなのです。」
精神現象は脳の反映ではない!?
唯物論の考え方では、精神は脳という物質の「反映」ということになります。「反映」に過ぎない、ということになります。この「反映」という言い方にも、小林秀雄氏は鋭いメスを入れておられます。小林秀雄氏は、先の「現代思想について」の講演の中で、こう述べておられます。
「ベルグソンはそんなふうに考えなかったのです。物的というのは、測定しうる事実ですよね。物質界です。世界はその反映だというのがマテリアリスム(唯物論)だよね。それを破ったのですよ。反映ではないんです。
では、反映って何ですか。反映という言葉は実に曖昧じゃありませんか。もしも君が唯物論者ならば、君、それを考えてごらん。いろんな本を読んで、反映という言葉をはっきり書いた本が一つでもあったら、探してごらん。ただ『反映だ』といわれているから、反映だといっているだけじゃないか。反映って何だ。
ベルグソンはこういっている。たとえば暗闇の中でマッチを壁に擦(す)る。すると、壁に燐光(りんこう)が残るね。燐が光って、マッチの運動と同じような線が壁に描かれるだろう。人間の意識というのは、ちょうど、その燐光の如きものだとマテリアリスムはいうだろう。
それは一つの比喩(ひゆ)だろ? どうして、自然界に同じものが二つあるんですか。物質的な動きを反映して、同じ現象があたかもマッチに燐光が寄り添うが如くに随伴して、一つの現象が二重になって生じる——マテリアリスムは、そういうのです。
もとは物質のほうにある。だから、物質を調べれば人間の精神もわかる。なぜかというと、人間のほうは随伴している現象に過ぎないからだ、とマテリアリスムはいう。どうして、この自然にそんなふうな無駄があるんだ。たった一つでいいじゃないじゃか。
随伴した現象がどうして要るのですか。常識から考えたって、わからないじゃないか。自然はそんな無駄、そんな贅沢を許さないですよ。
精神現象と物的現象は違うんです。関係はあるけれど違うんです。違うものなら自然は許します。こっちにはこっちの機能がある。あっちにはあっちの機能がある。二つの機能が違うから、二つあるのです。こういうふうに考えていくと、いわゆる反映という現象はきわめて曖昧(あいまい)でしょう?
心の現象は物的現象の反映であるという。その反映とは何かと問われれば、鏡に物が映るが如(ごと)き現象だという。しかし、鏡に物が映っても、本物と鏡に映ったものとは違いますよね。だが、今の心身の並行論は、厳密なる照応をいっている。それを反映と呼ぶのでしょう? それならば、反映というのは、非常に曖昧な言葉じゃありませんか。
精神現象と物的現象が関係ないなんて、ベルグソンも誰もいえやしないですよ。壁に外套が掛かっているが、壁に打った釘がなければ、外套は掛からない。それと同じです。関係は大いにあります。関係があるけれども、両者は同じものだとはいえない。それから、反映だともいえない。
なぜ、反映というか。釘の反映が外套です。釘がなければ外套は掛からないが、釘と外套は違うじゃないか。釘のあらゆる部分は、外套のあらゆる部分と一致していない。けれど、両者には密接な関係がある。釘が抜ければ、外套は落ちてしまう。
だから、精神現象というものを、壁の釘に掛かった外套の如きものだとするならば、あるいは、釘に掛かったということが精神の機能ならば、釘を外せば外套が落ちるのと同じように、君の肉体無くして、君の精神の働きはありません。けれども、君の精神は君の肉体の反映ですか。そうはいえないんです。そういう結論は不合理なんです。
少し考えてごらん。こんな不合理的なことはありませんよ。これは、反映という言葉のごまかしから来ています。ベルグソンはそこを調べたのです。
これはね、僕がこうして君に説明しても、君には、なかなか納得がいかないくらいむずかしい大問題です。ベルグソンをお読みになるといい。いわゆるマテリアリスムという、現代科学の基礎になっている考えが、いかに頑迷であるか、それはもう信じがたいほどのものです。」
小林秀雄氏が述べておられるのは、ベルグソンが例(たと)えとしてあげた釘と、その釘に掛けてある衣服の例です。巧みな例えです。
重複になるかとは思いますが、重要な指摘ですので、ベルグソン自身の著作からも、直接、引用しておきます。ベルグソンは、その著『物質と記憶』(白水社 田島節夫訳 )の中で、こう述べています。
「意識状態と脳との間に連帯関係があることは、なるほど異論の余地がない。しかし衣服と、それが掛けてある釘との間にも、やはり連帯関係はある。釘をぬけば、衣服は落ちるからだ。だからといって、釘の形が衣服の形をそのままあらわしているとか、どんな仕方によるにしても、これを予知させてくれる、などと言うひとがあるだろうか。同様に、心理状態が脳のある状態にかかわっているからといって、心理と生理の二つの『平行』を結論するわけにはいかない。」
釘と衣服の関係は、脳と意識の関係、あるいは脳と心の関係と同じだ、とベルグソンはいっているのです。いわゆる心身二元論の考え方です。
ベルグソンの考え方は、心身二元論の立場に立つ、あくまで二元論者の考え方ですが、けっして神秘主義的ではなく、非常に緻密で論理的です。このベルグソンの考え方を、みなさんは、どう受けとめられるでしょうか?
肉体が滅びれば魂はなくなるか?
講演の中で、小林秀雄氏は、いわゆる「科学論」ということについても、触れておられます。小林秀雄氏は、「科学論というものは面倒なものだ」と断りつつ、科学が何をなしえ、何をなしえないのか、科学の可能性と不可能生、科学の限界ということについて、語っておられます。
日頃から小林秀雄氏が、どれだけ深く、この問題を考え続けきたかが垣間見られます。小林秀雄氏ほどの優れた近代的知性を持ち合わせた人物が、考えに考え詰めた問題の一つ。それは、唯物論ということについてであり、科学ということについてです。
自身が二元論者であることを公言してはばからない小林秀雄氏は、古くから考えてきた人間の「常識」を重んじておられます。一方で物資というものがあり、一方で精神というものがある、という古くからある考え方です。小林秀雄氏は、その「常識」に立ち返ろうとされています。
小林秀雄氏によれば、私たちの「常識」は、そういうふうに見ている、この問題をそういうふうに捉えている、というわけです。もちろん、これは、あくまで小林秀雄氏の目を通した「常識」であり、人によって、何が「常識」であるか、ということについては意見がわかれるところでしょう。
むろん、いうまでもなく、精神も物質も単独には現れません。このことを、小林秀雄氏は、「酒を飲めば、酔っぱらう。意識と腦とは確実につながりがある」という実にわかりやすい例で語っておられます。
精神が精神として現れるためには物質を必要とし、一方、物質が物質として現れるためには、つまり、物質が物質として認知されるためには精神が必要となります。精神と物質、両者は、相互作用し、補完関係にある、というのが二元論の考え方です。
心、精神、意識、記憶、といった言葉を、私たちはごく普通に使います。それらが、あたかもちゃんと区別されたものであるかのように、私たちは何気なく使い分けて、使っています。しかし、それらは、それほど、ちゃんと区別されたものでは、ないのではないでしょうか? 区別されたもの、区別できるかのように、私たちが思い込んでいるだけなのではないでしょうか?
それらは、けっして厳密に区別できるものではないでしょう。昔からある言い方に従えば、それらは「魂」というものの別名にほかならない、ということになるのではないでしょうか? 「魂」と呼ばれているものを、どういう角度から見るかという、その見え方の違いにすぎないのではないでしょうか? それらに、厳然たる区別などあろうはずがないし、区別などつけられるはずがないだろう、というふうに私には思えます。
小林秀雄氏は、講演の中でこんなふうにも語っておられました。
「記憶と脳髄というものは、並行していない。お互いに独立しているのです。人間が死ねば魂もなくなると考える。そのたった一つの理由は、肉体が滅びるという理由しかないではないか。これは十分な理由ではないではないか。」
小林秀雄氏が主張されているのは、肉体が滅びても魂は残る、ということです。人類にとっては、古くからある主張であり、思想です。二元論者であることを公言しておられる小林秀雄氏は、おのずと「魂の不死性」、「霊魂不滅」という考え方に導かれていったのではないでしょうか?
科学は「個性」を扱えない
小林秀雄氏は、『小林秀雄 学生との対話』(新潮社刊 2014年初版発行)の中で、こうも述べておられます。
「それ(注:神話のこと)が昔の人々の迷信であったとしても、今はまた違った迷信を持っているかも知れないのが歴史の真相ではないか。」
これは、同著の中の「文学の雑感」と題された学生との質疑応答の中での発言です。小林秀雄氏の発言の真意を汲(く)み取れば、科学的思想、なかんずく唯物論にもとづく科学的思想を「常識」として持ちがちなわれわれ現代人は、「迷信を持っているかもしれない」との忠告にほかなりません。大変、強い発言です。
質疑応答に際して、同著の「文学の雑感」の中で、小林秀雄氏はさらにこう続けておられます。
「歴史上の出来事というものは、いつでも個性的なものでしょう。諸君の個性は、どの人もみな違うではないか。けれども物理学者にとっては、諸君の個性などないではないか。生物学者が諸君を観察すれば、諸君の個性は消え、人類という種が現れるでしょう。人間はみんな同じことをやっていると言う。それは抽象的なことだが、そうしなければ科学は発達しないのです。だから、科学というものは個性をどうすこともできない。
しかし、僕らの本当の経験というものは、常に個性に密着しているではないか。個性に密着しても、僕は生物たる事を止めやしない。だから、科学よりも歴史の方がもとです。歴史の中には、抽象的なものも入って来るし、自然も入って来ます。しかしそれは歴史の一部です。」(「文学の雑感」 P28)
経験や個性というものに着目した時、主観、客観という言葉の曖昧(あいまい)さも、改めて、浮き彫りになってきます。
「本当に切実な経験というものは、主観的でも客観的でもないですね。つねられて痛いと感ずる経験と同じです。痛いというのは主観的なことか、客観的なことか。どっちでもないじゃないか。本当に直接には僕の心の中の経験じゃないか。」(『小林秀雄 学生との対話』「信じることと知ること」)
私たちは、科学がいうところの「経験」というものと、私たちが普通にいうところの「経験」というものとを、よくよく吟味すべきです。その違いに気づくことが大事です。
対談で明かされる
湯川秀樹氏の科学観
日本人初のノーベル賞を授与された理論物理学者・湯川秀樹氏の発言についても、ここで触れておきましょう。以下は、小林秀雄氏と湯川秀樹氏との対談「人間の進歩について」からの引用です。小林秀雄氏は湯川秀樹氏に、こう問いかけます。
「渡辺慧さんの論文(「量子力学に於ける時間とベルグソンの純粋持続」、「サンス」第二号)を偶然読んで大変面白かった。(中略)。あれは今の問題に関する一つの解決を提供しているように思えました。
つまり精神性と物性を一応区別しての立場から実験、行為というようなものでこの二つが繋がりのある途を見つけようという考え方じゃないのですか。あの人の考え方は−−−−」
ちなみに、小林秀雄氏の発言に登場する渡辺慧氏とは、次のような人物です。
渡辺慧(わたなべ・さとし)氏(1910年〜1993年)は、東大の物理学科を卒業した物理学者です。「不確定性原理」の発見などで有名なハイゼンベルグの下で、原子核理論の研鑽(けんさん)を積んだり、量子論の育ての親として有名なボーアのもとにしばらく滞在したこともあります。物理学者としてのキャリアは華々しく、ベルグソンの時間論を基調とした『時』(河出書房新社)という本の著者としても知られています。
この小林秀雄氏の問いに対する湯川秀樹氏の答えは、こうです。
「大体そうですね。先ほどから申しますように大体現在のところ、私は二元論的な立場なのです。どういう言葉を使ったらいいかわかりませんけれども、それは精神というか、人間というか、そういうものから理解していくのと、自然法則の根本から理解していくという、その両方の行き方がなければ物事を了解することはできないと思います。
その点は同じですけれども、ただ渡辺さんが両方のものをどうして繋ごうとしておられるのか、私が繋ごうとしているのと少し違うと思います。」
湯川秀樹氏は、さらにこう続けます。
「渡辺君の立場は量子論などをやっておられる多くの人たちの考えと少し違う。そういう明瞭な二元論は少ない。むしろ一元的な立場の方が多い。私は二元論でなくちゃいけないと思いますが、その二元論の入れ方をもっと普通の一元論に近いものにできないかと思うのです。そこだけの違いで、やはり二元論でなくてはどうにもならないような気がする。」
湯川秀樹氏ほど著名な理論物理学者が「二元論でなくてはどうにもならないような気がする」と述べておられる意味合いは、実に、重要です。唯物論というものに少しの疑いも持たない現代の科学者たちは、湯川秀樹氏のこの発言に対して、どう「反論」するのでしょうか?
私は、科学者たちへもいろいろ取材した経験がありますが、私自身は、これまで、科学者たちから、まともな「反論」を聞いたことがありません。
湯川秀樹氏の発言に、さらに耳を傾けましょう。
「だから、法則ということになれば一種の信仰に近いものになります。法則があるとしても、その法則は有限のものでは実証されない。しかもここに有限のものしか与えられないとすれば、それ以上は法則を信ずるほかないわけです。無限回の出来事があるとしなければ、それは完全な実証にならない。ただ近似的なことしか言えない。そばまで行って横へそれる場合まで考えれば、話はまた変ってくるわけです。
だから科学というものは結局最後には法則に対する信仰ということになるわけですね。ほかの宗教とか、いろいろなものは信仰するものだけが違う話で……ですから法則というものを通って神様を信ずることもできるでしょうし、いろんな信じ方があるでしょう。科学というものは事実を通じて法則を信ずるのですが、更にそれを通じて何か別のものを信ずるかどうかはまた別の問題です。
そういうわけで現実世界には法則というものに対する完全な実証がない。と同時にそれが確率的な法則である以上は、われわれは将来に対する不安が絶対になくなるということはない。もう今度はこうなるに決っているから安心している、絶対的に安心しているということはない。たとえば将来戦争は絶対にないということは言い得ない。ただそれをできるだけ起らないように努力するということしかないのじゃないでしょうか。」
湯川秀樹氏との対談で二元論に話が及び、小林秀雄氏はこう言及されています。
「ええ二元論です。常識の立場です。勝手な物の言いかたになりますが、たとえば、今の時間の問題がパスカルに現われたとします。そうするとおそらくパスカルはこんなふうに考えると想像される。時間に向きがあると考えざるを得ない人間的状況が与えられている。
一方、方程式の変数としての時間を考えざるを得ないもう一つの人間的状況も同時に与えられている。両者を統一する合理的立場は、人間の側からは原理的に出て来ない。出て来るとすれば、本当の実在の側から、神の側から出て来るだろう。しかもそれは人間の側からみれば不合理と映るかも知れない。
要するに合理的立場の強調は、人間に与えられた現実の状態の複雑さとか、そのいろいろな秩序の不連続とかいうものをはっきり見ないところから起る。そういうふうに、パスカルを徹底した経験派と考えてもいいと思います。恐るべき実験家−−−−彼の回心は、最後の実験だったと考えて差支えあるまい。その点で徹底した二元論者だと言えるので、そういう人が、自然の原理が人間の理性の原理のなかにそっくり入って了うというデカルトふうの考えと衝突した。」
そして小林秀雄氏は、必然的な帰結として、こういいかけておられます。
「肉体の秩序はただちに精神の秩序に連続していない。とすれば、肉体は滅びても−−−−」
小林秀雄氏は、もちろん、ここでも、「魂の永遠性」について触れておられるのです。
天才の思考
パスカルの『パンセ』
ここまで来て、紹介しなければならないのは、やはり、パスカルの『パンセ』です。パスカル(1623年~1662年)は、いうまでもなく、フランスの哲学者であり、思想家です。また、数学者、物理学者でもあり、人類史上にその名をとどめる天才です。
「閉じ込められた流体の一部に圧力を加えると、その圧力の増加分は同じ強さで流体のすべての方向に伝わる」という、有名な「パスカルの原理」などとしても、その名を知られています。
パスカルの著『パンセ』は、鋭い叡智と深い思索に満ち、紛れもなく天才の思考の足跡が刻まれています。宇宙の深淵、神の深淵に向けられた、天才の切っ先のような著作『パンセ』の中で、パスカルはこう書きとめます。なお、以下は『パンセ』(中公文庫 前田陽一・由木康訳)からの引用です。
「私の一生の短い期間が、その前と後との永遠のなかに<一日で過ぎて行く客の思い出>のように呑(の)み込まれ、私の占めているところばかりか、私の見るかぎりのところでも小さなこの空間が、私の知らない、そして私を知らない無限に広い空間のなかに沈められているのを考えめぐらすと、私があそこでなくここにいることに恐れと驚きを感じる。
なぜなら、あそこでなくここ、あの時でなくて現在の時に、なぜいなくてはならないのかという理由は全くないからである。だれが私をこの点に置いたのだろう。だれの命令とだれの処置とによって、この所とこの時とが私にあてがわれたのだろう。」
そして、パスカルはこう思索をめぐらせます。
「この無限の空間の永遠の沈黙は私を恐怖させる」、と。
どこか、ヨハネの「黙示録」の不気味さのようなものも漂わせる、深淵を垣間見させるような文章です。さらに、パスカルは、精神と肉体の関係についてこう言及します。
「われわれがあらゆる事物を精神と物体とから合成するのを見て、この混合こそ、われわれにとってきわめて理解しやすいものであろう、とだれが思わないであろう。ところが、これこそ最も理解しにくいものなのである。人間は、自分自身にとって、自然のなかでの最も驚異に値する対象なのである。
なぜなら、人間は、身体が何であるかを理解できず、なおさらのこと精神が何であるかを理解できない。まして、身体がどういうふうにして精神と結合されうるのかということは、何よりも理解できないのである。<精神と身体との結合様式は、人間に理解しえぬところである。しかもこれが人間なのである>」
「われわれの魂は、身体のうちに投げこまれ、そこで数、時、空間三次元を見いだす。魂はその上で推理し、それを自然、必然と呼び、他のものを信じることができない。」
精神と肉体の混合である人間。その不条理さ、謎解き不可能な難解さが、この天才によって、喝破(かっぱ)されています。また、パスカルは、小林秀雄氏の先の言説にも少し出て来たデカルトについては、こう揶揄(やゆ)します。
「無益で不確実なデカルト。」
「私はデカルトを許せない。彼はその全哲学のなかで、できることなら神なしですませたいものだと、きっと思っただろう。しかし、彼は、世界を動きださせるために、神に一つ爪弾(つまはじ)きをさせないわけにいかなかった。それからさきは、もう神に用がないのだ。」
「デカルト。大づかみにこう言うべきである。『これは形状と運動から成っている』と。なぜなら、それはほんとうだからである。だが、それがどういう形や運動であるかを言い、機械を構成してみせるのは、滑稽(こっけい)である。
なぜなら、そういうことは、無益であり、不確実であり、苦しいからである。そして、たといそれがほんとうであったにしても、われわれは、あらゆる哲学が一時間の労にも値するとは思わない。」
神の存在をめぐる
パスカルの有名な “ 賭け ”
人間にとって最も深刻で重要な問題とは、死の問題であり、魂の問題です。敬虔(けいけん)なキリスト者でもあったパスカルは、『パンセ』の中でこう述べます。
「私の知っていることのすべては、私がやがて死ななければならないということであり、しかもこのどうしても避けることのできない死こそ、私の最も知らないことなのである。
私は、私がどこから来たのかを知らないと同様に、どこへ行くのかも知らない。ただ私の知っていることは、この世を出たとたん、虚無のなかか、怒れる神の手中に、未来永劫(えいごう)陥るということで、この二つの状態のうち、はたしてそのいずれを永遠に受けなければならないのかということも知らないのである。これが私の現状である。弱さと不確実さとに満ちている。」
そして、神についての論考、神がいるか否かについての、パスカルの有名な「賭(かけ)」の論考が行われます。
「神があるということは不可解であり、神がないということも不可解である。魂が身体とともにあるということも、われわれが魂を持たなということも。世界が創造されたということも、世界が創造されないということも、等々。原罪があるということも。原罪がないということも。」
「神が無限であり、しかも部分を持たないということは不可能だと思うか——そうだ。——それなら、無限であり、しかも不可分のものを一つ君に見せてあげよう。それは、無限の速度であらゆるところを運動している一つの点である。
なぜならばそれは、あらゆる場所において一つであり、おのおのの場所において全体であるからである。」
「今は自然の光にしたがって話そう。もし神があるとすれば、神は無限に不可解である。なぜなら、神には部分も限界もないので、われわれと何の関係も持たないからである。したがって、われわれは、神が何であるかも、神が存在するかどうかも知ることができない。そうだとすれば、だれがいったいこの問題の解決をあえて企てようとするであろうか。それは神と何の関係も持たないわれわれではない。(中略)。
『神はあるか、またはないか』と言うことにしよう。だがわれわれはどちら側に傾いたらいいのだろう。理性はここでは何も決定できない。そこには、われわれを隔てる無限の渾沌(こんとん)がある。
この無限の距離の果てで賭(かけ)が行なわれ、表が出るか裏が出るのだ。君はどちらに賭けるのだ。理性によっては、君はどちら側にもできない。理性によっては、二つのうちのどちらを退けることもできない。
したがって、一つの選択をした人たちをまちがっているといって責めてはいけない。なぜなら君は、そのことについて何も知らないからなのだ。——いや、その選択を責めはしないが、選択をしたということを責めるだろう。なぜなら、表を選ぶ者も、裏を選ぶ者も、誤りの程度は同じとしても、両者とも誤っていることに変わりはない。正しいのは賭けないことなのだ。
——そうか。だが賭けなければならないのだ。それは任意的なものではない。君はもう船に乗り込んでしまっているのだ。では君はどちらを取るかね。さあ考えてみよう。選ばなければならないのだから。どちらのほうが君にとって利益が少ないかを考えてみよう。
君には、失うかもしれないものが二つある。真と幸福である。また賭けるものは二つ、君の理性と君の意志、すなわち君の知識と君の至福とである。そして君の本性が避けようとするものは二つ、誤りと悲惨である。君の理性は、どうしても選ばなければならない以上、どちらを選んでも傷つけられはしない。
これで一つの点がかたづいた。ところで君の至福は、神があるというほうを表にとって、損得を計ってみよう。次の二つの場合を見積もってみよう。もし君が勝てば、君は全部もうける。もし君が負けても、何も損しない。それだから、ためらわずに、神があると賭けたまえ。——これは、すばらしい。そうだ、賭けなければいけない。
だが僕は多く賭けすぎていはすまいか。——そこを考えてみよう。勝つにも負けるにも、同じだけの運があるのだから、もし君が一つの生命の代わりに二つの生命をもうけるだけだとしても、それでもなお賭けてもさしつかえない。
ところが三つの生命がもうけられるのだったら、賭けなければいけない(なぜなら、君はどうしても賭けなければならないのだから)。そして、賭けることを余儀なくされている場合に、損得の運が同等であるという勝負で、三つの生命をもうけるために君の生命を賭けなかったとしたら、君は分別がないことになるだろう。
ところが、ここには、永遠の生命と幸福とがあるのだ。それならば、仮に無数の運のうちでただ一つだけが君のものだとしても、君が二つの生命を得るために一つの生命を賭けてもまだ理由があることにはなろう。そして、賭けることを余儀なくされている場合に、無数の運のうちで一つが君のものだという勝負で、もしも無限に幸福な無限の生命がもうけられるのであるならば、君が三に対して一つの生命を賭けることを拒むのは、無分別ということになるだろう。
ところが、ここでは、無限に幸福な無限の生命がもうけられるのであり、勝つ運が一つであるのに対して負ける運は有限の数であり、君の賭(か)けるものも有限なものである。これでは、確率計算など全部いらなくなる。どこでも無限のあるところ、そして勝つ運一つに対して負ける運が無限でない場合には、ぐずぐずしないで、すべてを出すべきだ。
したがって、賭けることを余儀なくされている場合には、無に等しいものを失うのと同じような可能性でもって起こりうる無限の利益のために、あえて生命を賭けないで、出し惜しみするなど、理性を捨てないかぎり、とてもできないことである。(中略)。
これには証明力がある。もし人間がなんらかの真理をつかむことができるとするならば、これがまさにそれである。」
神は存在するのか、存在しないのか? 人間の理性は、残念ながら、それを決定できない。では、どちらに賭けるか? それは、まさにギャンブルである。
神は存在するという側に賭けたまえ。存在すると賭けても、君は失うものは何もない。逆に、得るものは、無限の幸福と無限の生命である。であるならば、君は迷わず、神は存在するという側に賭けたまえ、それが損得を第一に考えるギャンブラーという者だ、とパスカルはいっているのです。
キリスト者という垣根を取っ払って、あえて一般人の立場に身を置いて、ギャンブラーになったつもりで考えてみよう、とパスカルは呼びかけているのです。
科学に負けない「常識」の立場
私の立場は、唯物論が正しいのか、二元論が正しいのか、どちらが正しいのか、正直いってわからない、という立場です。ベルグソンや小林秀雄氏のように、二元論を公然と肯定するという立場は、今のところ、取れません。それは、神の存在を肯定も否定もできない、という立場とどこか似たようなものともいえます。
もっとも、日本人である小林秀雄氏は、どこかで、「西洋でいうところの “ god(神) ” は自分にはよく理解できない」、といったことを述べておられたと記憶していますが。
ただし、神の存在の有無にかかわらず、現代科学を支配する唯物論という「思想」には、はなはだ大きな疑問がつきまとうことは、まさしく、その通りです。そのことは、十分に理解されます。了解できます。それが、私にとっての「常識」ということになります。
この論考は、「唯物論」についての論考です。「唯物論は正しい」と主張する人たちが、世の中には大勢います。現代の科学界、現代の科学者たちの主流も、もちろん、そうです。しかし、改めて、よく考えてみていただければと思います。よく考えてみれば、それは、なんら実証されていない、「思想」に過ぎない、ということがわかるはずです。
にもかかわらず、すでに実証されている、実証済みであるかのように思い込んでいる。そう思い込んでいる、そう錯覚しているだけ、それだけのことに過ぎないのかもしれません。なんら実証されていないことを、あたかも実証されているかのように思い込む。先験的に正しいことだとして、そう思い込む。そして、そのことを主張する。
これこそが、“ 非科学的態度 ” というべきものでしょう。
いみじくも、小林秀雄氏は、「理性は科学というものをいつも批判しなければいけないのです」と述べておられます。この発言は、「信じることと知ること」と題された講演の中で、なされたものです。『小林秀雄氏 学生との対話』( 新潮社 国民文化研究会・新潮社編)という本の中に、収録されています。
私もまた、「常識」にもとづく、健全な批判精神というものを持ち続けたいと思います。そういう態度こそが、小林秀雄氏がいう「科学を否定するというのではない、科学に負けてはいけない」という精神に通じるのだ、と思います。
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